[コメント] ハウルの動く城(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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云われているほどは悪くない。宮崎作品らしい、様々なメッセージが埋め込まれた佳作、との印象。
主人公ソフィーを通して唱えられるのは、大人の女性たちへの、恋を諦めないで、とのメッセージ。前作『千尋』とは、真逆の性格を持つ、しっかりもので世話焼きの、しかし奥手のソフィーが、魔法使いハウルへ抱く感情を、はっきり恋心だと自覚し、実践するまでの、ある種のビルディングロマンス。戦時下の恋物語としては平凡で類型的だが、成長するほどに若返っていく、というのを映像のみで表現した手法は斬新と云っていいんじゃないだろうか。
魔法使いハウルを通して説かれるのは、依存症で臆病者の男が発揮すべき勇気と、その勇気を発揮すべき時、向けるべき方向・対象について。収めるべきときは収め、退くべきときには退くのも勇気だという教えは、家族や正義を守るためなら何をしてもいい、というアメリカ・ネオコン思想に対する、実に宮崎らしい反論と云える。
これだけではない。
三輪明弘演じる「荒地の魔女」=老女を通しても、宮崎は語っている。それは、一つにはバリアフリーと老人介護の重要性について。王宮の階段でのエピソードは、前作の「河を奇麗に」の件と同様、平易で、青臭いほど率直だ。しかし子供たちへのメッセージとしては適切である。二つ目は、こちらの方が圧倒的に重要なのだが、老人よ若者に道を譲れ、との哲学。力を失った魔女が永年狙っていたハウルの心臓を、年若のソフィーに譲り渡すシーンを単なる「お約束」的展開として、見落としてしまってはならない。
そして『ハウルの動く城』、作品全体を貫くのはジプシー哲学に通ずる「軽やかに捨てよ」の思想である。魔法使いハウルの現実空間と異空間を同時に移動する城は、すなわち歩く家であり、流れる街であり、携帯する国家であり、ここに集う血縁なき擬似家族達の果ての無い旅とは、そのまま捨てることの連続、つまり所有せず所属しない、互いに争わないで持ちつ持たれつ助け合う、紛れも無いジプシーの遍路なのである。 (ハウルが強大な魔法の翼を失うことで、真実の自由と強さを手に入れる帰結については、いうまでもないことなので省略)
何でもかんでも所有できる、しかも個人所有できることに慣れ過ぎてしまった我々現代人にこれは余りにも手厳しい思想である。かといって実現不可能の理想論と決め付けてしまうのはチト早計だ。都市生活への固執を断ち切り、見終わったDVD、聞かなくなったCDを捨て、退屈だと思いながら惰性で読み続けている週間漫画の購読や、TVゲームの人気シリーズの購入、或いは期待を裏切られ続けていると感じている宮崎アニメの鑑賞に見切りをつけるだけでも、我々は幾らかは真の自由に、未知なる世界の冒険に近づけるのだ。
そろそろ、映画の出来に付いても語らなければ。正直、丁寧な作りではないと感じた。特に前半のストーリテリングが性急過ぎるのは致命的で、あれならソフィーは初めから老婆であっても(つまり呪いを掛けられてしばらく経った時点から物語が始まっても)同じようなものだと感じさせる。ソフィーが老婆になってしまったことを、本人よりも先に観客に知らせてしまう(=見せてしまう)のも演出としてちょっと頂けない。帰結にも不満がある。やはり性急だ。魔法犬ヒンに送られた映像を見ただけで、大魔女が心変わりする意味が判らない。また彼女の一存だけで、世界戦争が終結する、というのも余りにも楽観的だ。子供も安心して愉しめるように、万事丸く収めようという、その配慮は判るのだが、尺を伸ばしてでももう一工夫欲しかった。
声優について。キムタク、我修院、神木君、美輪さん、倍賞さん、そして最悪の場合これが遺作となってしまうかもしれない加藤治子さんと、皆これ以上ないというほどに適役で、実際巧かった。ギクシャクした部分もあるにはあったが、特に目に付くということもなく、まぁ安心して愉しめた。
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