[コメント] メゾン・ド・ヒミコ(2005/日)
一人ぼっちのサオリは外への大いなる一歩を踏み出したのではない。 帰るべき新しい家を見出して、その玄関のドアを閉めたのだ。
「メゾン・ド・ヒミコ」の物語は、私達が其処に訪れるとうの昔に既に始まっている。彼の地に於ける「生活」は、あらかじめ存続している「日常」であり、反復される「習慣」である。それは幸薄いサオリの職場に於ける、女子事務員たちと専務との爛れた関係も同様である。
義務や責任や常識や道徳といったものを盾にして、こうした習慣を厭い、絶海の孤島から世界を見下ろしているサオリ。半ば強制されてホームを訪れることになった彼女は、其処で怒り、嫌悪し、唇を噛み締めたりするが、同じように見出した喜びと安らぎを徐々に認め、ようやく自然にその身を任せられるようになっていく。そんな中、そこでの摩擦と、頬に付いた”おはぎ”を決定的な契機として、彼女ははじめて地上の甘い泥の中に降り立つことになる。そうして欲望から冷めたとき、彼女は初めて意識したのだ。帰るべき場所を。肉体だけでは埋められない孤独を。涙は止め処なく流れ落ちる。
柴咲コウは良く演じていた。その大きな猫目には、世間一般の懐疑と、被害者らしい抗議とが集約されていたし、葛藤の中で泣きじゃくる様は本当に醜細工に見えた。
オダギリジョーについては、既にジョニー・デップをも越えているのではないか。体全体に逞しさと脆弱さを併記して、性差を越えた圧倒的な色香を放っている。
田中泯に関しては上記二人とは少々異なる。現代日本に於ける数少ない「コミューン」実践者たる彼が演じたことで、ヒミコと彼女の「メゾン・ド・ヒミコ」は無言の説得力を獲得している。この役に下手な演技力や表面的な美しさを求めることは、美輪明宏の時代ならばともかくも、今や陳腐の極み、見世物主義の一形態にしか過ぎないのだから。
ヒミコが連ねる、また彼女に連なる、イメージの豊穣さにも目を見張る。冒頭の貨物列車や、路面のひび割れや、バスの老女や、カラッポのプールや、エド・マクベインの文庫本や、流し素麺や、お盆の走馬灯や、ビデオの録画予約には、何の意味を含まれていないし、同時に無限の日常が籠められている。その脈絡の無い統一感には正直、驚愕した。
台詞も良かった。堅苦しいのもあるにはあったが、それでも「触りたいところが無いんでしょ?」とか、「何ソレ?」「おはぎ」「おはぎ?」「舐めてもいいよ。甘いから」の流れとか、ゾクゾクするのがたくさんあった。
細野さんの音楽も尾崎キヨヒコも含め流石である。最近の映画監督というのは、どうも映画音楽というものを軽く考えすぎているきらいがあるが、犬童一心にはそういうところがまったく無い。自分の色よりも、画面の色に合わせようという気遣いこそが求められるべきである。
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