[コメント] 天国と地獄(1963/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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刑事が、精神異常者ではないかと疑うほど法外な身代金を要求する犯人の、その提示した額が実は、権藤が株主としての発言権を確保する為に用意した金を下回っているという皮肉。自分の子と間違って別の子が誘拐されたことによって、金を払うか否かの判断が却って、彼自身の人間としての生き方を問う意味合いを強めるという筋書きに感心させられる。
権藤が自宅の窓を開けるシーンが何度かあるが、そこから見える下界と、その下界から聞こえてくる雑音、それをピシャッと遮るようにサッシを閉める権藤、という何気ない映像によって彼の地位や人物を感じとらせる演出が巧い。それと対照的に、犯人がその狭そうな自室の窓を開いても、立ち並ぶ家々に視界が遮られ、丘の上の権藤邸だけが白く清潔な佇まいを際立たせている。だからこそ、権藤が刑事たちの姿を隠す為にカーテンを閉めきらねばならない状況に追い込まれる息苦しさが、そのまま犯人の階級的な復讐の表象となり得るわけだ。
権藤が自宅で債権者たちに「期限通りに金は返してくれ」と迫られるのを目の当たりにした刑事たちが車で戻るショットでは、坂の下に下界の街並みが見え、権藤の転落の暗喩にも思えた。この直前、刑事たちは世論が権藤に同情を寄せていることに多少の安堵を表していたが、その直後にあの債権者の登場であり、しかも債権者の一人は「同情だけならタダでできる」と言い放つのだ。
モノクロ映像に一色だけカラーを入れる手法は、後に『踊る大捜査線』が丸ごとパクっていたが、他にもコッポラの確か『ランブル・フィッシュ』や、スピルバーグの『シンドラーのリスト』でも用いられていた。それだけ他の監督たちにとってもインパクトが強かったということだろう。カラー映画が普通になった今と当時とでは驚きの質も違うのだろうけど、僕もあのシーンでは一瞬頭が混乱してしまった。
それに、鞄を燃やすと色つきの煙が出る仕掛けは、刑事が持ってきた物を、権藤自らの手で仕込んだのであり、そこに権藤の、見習工から這い上がってきた者としての矜持を感じ取ることができる。煙の発生源である焼却場に刑事が聞き込みに来る場面では、そこのオヤジと刑事と会話を通して、底辺の人間にゴミを押しつける、恐らくは中流階級であろう人々の存在が想像できる。
権藤が鞄に仕込みをするシーンでは既に彼は運転手の青木の子の為に身代金を払うことを決めているのだが、それは果たして彼が青木に同情したからなのか?むしろ、権藤の事情を知った青木が、権藤に対して同情を表したからではないのか。金や地位や会社が無くとも、自分は腕一本で立派にやってきたんだ――そんな矜持が権藤の気持ちを変えさせたのだという解釈もできなくはないだろう。彼が道具箱から出した工具を手に鞄を細工しながら言う「見習工の頃は靴も鞄も作らされたんだ。最初から出直しだ」という台詞は、彼の過去と、これから予想される苦境を同時に感じさせる。そこで刑事がすっくと思わず立ち上がるのだが、この映画での、刑事たちが立ち上がる仕種は一々作劇的に正しいタイミングである。
地位や富よりも自分の靴作りへのこだわりを全うする為に会社の支配権を握ろうとする権藤だが、その「靴職人としての」という点を際立たせる為に、家を抵当に入れるという状況が加えられたのではないか。彼が、身代金を払ってあげてと懇願する妻に「お前は生まれた時から豊かだったから、貧乏というものがどういうものか知らないんだ」と言う台詞は尤もに聞こえるのだが、秘書から、その金は元々妻の持参金が元手ではないかと突っ込みを入れられる辺りのバランス感覚がまた巧い。つまり、権藤は元来、その職人としての腕だけが財産であったわけだ。
終盤、刑事たちが犯人を泳がせて尾行するシークェンスは、それまでの、次から次へとシーンが展開する小気味よさは排され、全く異なる時間が流れ始める。犯人の一挙手一投足が何を意味し彼がどこへ何の目的で向かうのかが曖昧な状況で彼の行動を追うシーンを通して、彼、竹内銀次郎の謎めいた内面が垣間見える仕掛けになっている。と同時に、地獄の亡者のような貧民が蠢く最底辺の生活環境を見せていくことで、竹内が最後の面会シーンで吐く「元々地獄のような暮らしに慣らされてきたから、死ぬのは怖くない」という台詞の背景を、観客の脳裏に刻み込むことができている。この、犯人の生活していた場を刑事が歩くシーンで犯人の人物像を匂わせるという演出は、押井守が『機動警察パトレイバー』で見せていたものでもある。
遂に丘の上で竹内が逮捕されるシーンでは、白い花の間からぬっと顔を覗かせる彼の黒々としたサングラスが花の色と対照的。ラジオから漏れる陽気な音楽も効果的(『悪い奴ほどよく眠る』ではこの辺の匙加減に疑問を感じたのだが)。
この、丘の上、というシチュエーションは、権藤の丘の上の家を連想させて面白い。更に、誘拐された子がそこから見える光景を絵にしたことが捜査のヒントの一つになるわけだが、そこに描かれていたのは、富士山と太陽だった。共に、竹内が自室から見上げていた権藤の家のある丘などより遥かに高い場所にある対象だ。そこに、竹内が、更には刑事たちが「天国」として見上げていた権藤の邸宅などは本当の天国などではないのだという、密かなメッセージを読みとることも可能だろう。そして、竹内が「地獄」と呼んでいた生活よりも更に下の地獄とは、彼が最後に姿を消した、あの黒いシャッターの向こう側だ。そこから聞こえる竹内の絶叫、いやそれに先立つ、彼が揺らす金網の音さえも、地獄の底から響いてくるように聞こえた。
この面会シーンでの、竹内の表情の映るガラス越しに見える権藤の顔の美しさ、崇高さ。撮り方自体が何か工夫されている印象もある。対して、竹内の、怯えているくせに強がってみせる態度が次第に崩壊していく様は、山崎努の名演技。顔の筋肉の微かな震えにすらどす黒い狂気が漲る。この期に及んで悔い改めたり神に縋るのは嫌だと言って教誨師を断り、ビクビクしたり泣き喚いたり惨めったらしく死んだと思われたくないからと権藤を呼んだ彼は、「幸いおふくろも去年死んだから、胸糞の悪いメソメソした幕切れにならずに済んでよかった」など、全ての感情を切り離そうとしているようだ。自らの手の震えさえ「単なる生理現象」と弁解するが、彼が非情に徹しようとして叶わない様が逆説的に、彼がいま覗き込んでいる地獄の凄まじさを物語る。
犯人の真の動機、それは、前年に母親を失ったという言葉から覗える孤独、立派な家に家族と共に幸福に暮らしている権藤への羨望にあったのではないか。これもまた、一つの解釈にすぎないのだが。ただこう考えると、権藤への世論の同情を鼻で笑うことができず、更にルサンチマンをたぎらせていた竹内の様子にもより納得がいく。最後に竹内と権藤を遮る、冷たく黒く固い鉄の板。天国と地獄、という題名から連想される高低差がテーマのように見えるこの作品、実はむしろ、水平の関係、同じ高さを共有し合う視線が遮断されることが真の地獄だと感じさせられる。
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