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[コメント] 太陽(2005/露=伊=仏=スイス)

強いられた一人芝居として、虚空に‘日本’を描かされる天皇。しかし彼は、ロシア人監督が考えるような、唯一神的な存在だったんだろうか。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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天皇と、彼を取り巻く人間たちの、日常的な所作に見られる、まるで水を入れたコップを載せた盆を運んでいるかのような慎重さ、厳かさは、結局の所、天皇を拠り所とした国柄そのものを支える、日本人独特のバランス感覚としても捉えられているのだろう。ロシア人監督が、そうした日本の不思議な在り様を、興味深く見つめる様子が、一つ一つのイメージから感じ取れる。映画は終始、緩やかなテンポに乗せて、イッセー尾形演じる天皇の一挙手一投足を追っていく。

スローテンポの演出であるにも関わらず、鑑賞後、なぜか時間が早く過ぎ去ってしまったような感覚すら味わった。同じロシア映画でも、タルコフスキーなどの作風とはかなり対極的な印象がある。タルコフスキーの場合、その緩やかなテンポは、日常的な時間意識を洗い流し、意識下の感情を浮かび上がらせ、世界を‘永遠の相の下に見る’ような感覚を呼び起こす。一方、この『太陽』は、一人の人間としてのヒロヒトの、一つ一つの呼吸に合わせるようなリズムが、映画体験としての‘人間宣言’を実現している。この映画は、個々の歴史的事実の正確さ云々よりも、監督と共に観客が、この「呼吸を合わせる」という事、人間ヒロヒトに寄り添うという体験をする事にこそ、意味がある筈。勿論、この映画のヒロヒト像が、どれだけ実像に近いのかは留保しつつ、ではあるけれど。飽く迄、一ロシア人監督が夢想した、おとぎの国の王様‘ヒロヒト’の物語として、或る程度距離をとって評価する必要は、あるかも知れない。

冒頭からしばらくは、静かにスケジュールをこなしていく天皇の姿を、ただひたすら追っていく。これによって観客は、他人が替わる事の出来ない一つの役割を与えられた存在としての、‘天皇目線’で物事を見、感じるという体験をする事が出来る。迫り来る米軍の脅威も、国民の窮状も、直接見聞きする事無く、間接的にしか知りえない、密室の中の天皇。そして、いつの間にか敗北は訪れ、いつの間にか国土は瓦礫の山と化している。ソクーロフが天皇ヒロヒトの物語を、一個の「お伽話」として描こうとした意図は、巧く表現されていたと言える。代替不可能で、唯一の存在としての生き様を、観客として共有するという不思議。これが映画の、そして芸術のもたらす奇跡、マジックなのだろう。

イッセー尾形の演技は、揶揄的な、或いは滑稽な‘物真似芸’になる寸前で何とか踏みとどまる事で、どこかユーモラスで、かつ愛すべき人間としての天皇ヒロヒト像を作り上げているように感じた。尤も、皇后役の桃井かおりとのやりとりは、かなりコントめいて見えたけど。この、「天皇を演ずる」という際に求められるバランス感覚は、そのまま天皇制を支えるバランス感覚そのものだとも言えるかも知れない。

劇中、ヒロヒトは、‘神’を演じる事を求められる立場を、一見、淡々と受け入れながらも、やはり重圧と苦悩を感じている心境を垣間見せている。しかし、国民は逆に、‘神’の支えなくして存在する事の出来ないものとして描かれている。このギャップが生む、悲喜劇。ヒロヒトの、「誰も私を愛していない」という台詞は、人々が愛しているのは‘神’としての天皇であって、人間としてのヒロヒトではない、という事を示唆しているのだろう。尤も、‘現人神゜としての天皇に寄せる日本人の感覚は、実際にはそう単純に二項対立的に割り切れるものなのか、多少疑問に感じなくはないのだけど。

もう一つ注目すべきは、アメリカ人の描き方。朗らかで気さくだが、伝統と慣習に対する敬意などに欠けた所のある人たち、として描かれていて、それは一般の兵士から、マッカーサーまで共通している。彼らに追いまわされる鶴は、天皇と共に、古い日本の象徴に見える。この鶴が、ヒロヒトがマッカーサーの元に連れて行かれる(「連行される」と言っても良いような場面だ)時、薄暗がりの中、哀しげに一声鳴く場面は、数々の美しい場面の中でも、最も痛切な美しさを感じさせる場面。

その一方、ヒロヒトが、アメリカ映画のスターたちのブロマイドに見入ったり、彼らに「チャーリー」と呼ばれたりする場面は、かなり示唆的なように思えた。今の日本人にとって、天皇よりもハリウッド映画のスターの方が、親しみやすい存在であり、更には、神聖な存在でさえあるのかも知れないし、天皇に対しても、‘神’として敬うよりも、「チャーリー」のようなマスコット的存在として受けとめている所があるのではないか。この映画は、単に過ぎ去った歴史的出来事を回顧しているのではなく、今の時代を逆照射する作品なのだと言えるだろう。

それにしても、桃井かおりって、何をやっても桃井かおりだな。こういう「性格俳優」が嫌いな僕としては、イッセー尾形と舞台で共演しているからという理由だけで持ってきた観のある配役には、不満を覚える。尤も、天皇の振る舞いそのものが、一種の一人芝居だ――という観点からイッセー尾形を配役したのだとしたら、桃井が出てくるのも仕方ないのかも知れないけど。イッセー尾形といえば、一人芝居の名人として世間で知られた人。かたや、昭和天皇という人は、周囲の人間が担いだ神輿に一人乗せられて、国家という舞台の上での役割を、生涯演じ続けるよう求められた存在。イッセー尾形が舞台の上で、見えざる人物や世界を、自らの身振りと言葉で現出させるように、天皇の振る舞いや‘お言葉’が、共同幻想としての日本という国を現出させた。イッセー尾形は、現代の典型的な日本人像を、自由に自作自演してきた人なのだけど、天皇は、抽象的な形で‘日本’という国の形を演じ続けた存在であり、そうする事を強いられた存在だとも言えるかも知れない。この両者の、二重映しのように見える部分と、対照的に見える所の微妙なあやもまた、この映画の隠れた見所と言える。

ただ一つ疑問なのは、この映画での、所謂「人間宣言」の扱い。「人間宣言」という呼称は単なる通称であって、実際に昭和天皇御自身が天皇の神性を‘否定’されたわけではない筈。だから、映画の最後で「人間宣言」を録音した人間が自決し、しかもそれを誰も止めなかった、という件は、自らの神格を否定したヒロヒトが、彼を絶対的な帰依の対象としてきた全国民の依存心に復讐されたかのような、衝撃的な終幕として、映画的には大成功なのだろうけど、そうした‘神/人’が隔絶したキリスト教的二元論は、日本人の感覚とは、少しずれている所があるようにも思える。尤も、ロシア人監督が作れば、そうなるのも致し方ないのかも知れないが。或いは、三島由紀夫の≪英霊の声≫にある、「などてすめろぎは人となり給いき…」というのが念頭にあったんだろうか。ミシマも、思考回路が半分くらい西欧化しているんだけど...。

(評価:★4)

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