[コメント] アフタースクール(2008/日)
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前作『運命じゃない人』が、既に一度披露された状況を他者の視点に転換してリピートすることで、同じ進行をしながら、別の意味や表情を見せる変幻の面白さを追求した作品だとすれば、本作は「他者視点」の替わりに、一部の情報を遮断することで起きる「勘違い」を追体験していく面白さ、と言えようか。話の前後をカットするというだけでなく、説明されない「夫婦」やら「妹」やらの相関関係、音声のない動画、源氏名の記号性などが、そういう状況をもたらすということをよく研究しているな、と思う。
他者視点の追加だって情報の遮断であるのだから両者は同じようなものだが、前者の場合、どの視点が正解、ということはないのに対し、後者の場合、欠けた情報を正しくあて嵌めた状態のみが正解である。欠けている状態というのは意図的に作られている。ということは、つまり監督も役者も、場面ごとに「勘違いで見えること」と「本当に起きていること」の2重の意味を一つの演技でどっちも表現しなければいけないということになっている。『運命じゃない人』は、演じている人は「一つの登場人物の心理の進行」だけを考えて演技すれば、後はアングルを変えることで勝手に見え方が変わるという仕組だが、本作はアングルを変えられないので「二つの見え方」を一人が意識して演じるという高度なことをやっているわけだ。これがほとんど破綻なく出来上がっているということは凄いと思うし、大変なことだったと思うが、騙し話を作るのが好きな人にとっては、こんなに面白い作業というのもなかっただろう。後から真相を知った観客(私)が、それが真実だったらあの時のあの仕草は不自然だろ、と突っ込みをいれたくなるところに、実にことごとく「手が打ってある」。さすが騙し屋けんじ(褒めてます)だ。そんじょそこらの突っ込みなど「かかってきなさい」なのだろう。
しかし、どうしても「本当の気持ち」のほうに「置き去り」が生じ、不足を感じるのも事実。神野の美紀への20年ぶりの告白というラストがとって付けたようで、それまでの騙しのような「ああ、そうか!」というのがないのが惜しい。作戦実行中の底辺に流れているはずの神野、美紀、木村の恋愛感情が、もう少しでもさりげなく描かれていれば、あの「指輪オチ」でもっと膝をうってしまうくらい「腑に落ちた」だろう(20年目の告白に完璧に着地してこそ「アフタースクール」という題に相応しいと思う)。美紀を病院から中学校へ移してきて、ほぼ作戦が終わろうとしている時、神野が教室で黒板の落書きを消している場面があるが、半年におよぶ作戦という中での共同生活ももうすぐ終わってしまい、この時の神野の胸には「これからの美紀との将来への決意」について去来するものがもっとあったはずのように思うし、妹を死体にしてマンションから脱出させる場面での神野は、妙に作戦に確信をもっているように見えてしまうのだが、実の妹であればもう少し無事を案じるのが「本当」のように思う(互いにぶっきらぼうな口を利いていて少しネタバラシをし始めているのにも関わらず「それで」終わってしまってる)。このあたり騙すことを優先して抑制しているのだろうが、もう少し「本心」を感じさせてもいけたように思うのだ。何しろこのあたり、多くの観客は「頭の中の整理」でそれどころではない筈である。むしろ一瞬の違和感でよりよい伏線になったように思う。
そして北沢と神野の「世間知らずの教師」と「自分で勝手にひねくれてる生徒」という対峙も、そこまで言うほどに2人の心情を描いてきたように感じないのだ。いや結構台詞的にはそういう応酬が多いのに、やはり観客は「頭の中の整理で」それどころではないという感じなのだと思う。つまり「パズルの組み立て」と「心情のドラマ」とのバランスの問題なのだと思う。
市川森一が同じプロットで描けば、もっと登場人物の心情に訴求した青春物になったろうし、三谷幸喜だったらもっとギャグを増やすことに情熱を燃やしたろう。最後の20年後の「アフタースクール」の描き方もウェットにならないこの加減こそ監督の中での粋なのかもしれない。内けんファンはそのうち、このバランスこそ「そこがいいんじゃない」というふうになるような気もするのだ。
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