[コメント] アフタースクール(2008/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
あるシーン、あるシチュエーションがあったら、それについて、小説は基本的にすべてを読者に説明する。意図をもって、意識して隠すことはあっても、通常はシーンの頭でそれがどういう場面であるかを読者に開示し、そこで切ったら「語り」として不自然になるところでシーンを切ることは無い。
ところが映像、というより脚本は省略とカットのメディアだ。昔、「古畑任三郎」で尼さん故に嘘をつけない犯人の沢口靖子が「黙っていることと嘘をつくことは別です」みたいなことを言っていたが、この映画はまさにそれで、たとえばこの映画の冒頭で登場人物たちが旦那と嫁と嫁の父に見えるのは、映像(脚本)が省略を「できる」からだ。ただ、省略を省略に見せないのは脚本家としての力だ。そしてミスリードが「自然に黙っていること」であり、黙られていたことを打ち明けられて感心できるのは、開示されていたこと、黙られていたことを繋げた全部が磐石に見えるからだ。破綻無きよう精査されていると解るからだ。それ故に密度があり、質の高い作品と思う。
同時に、タイトルに集約されたテーマが、上記のミスリードに組み込まれ、指輪にはめ込まれたダイヤのように光っている。人に教えるべき立場にある実直な人間が、お前が何を知っていると言われ、アイデンティティを奪われる愕然が、最後に逆襲してみせる快感が、こちらの感心を感嘆へと一段押し上げる。
ただ、自分は、感動はしなかった。一つに先述のチンピラ探偵が先生に投げつけた言葉は、おいそれと覆せるような軽いものではないと思うのだ。そして先生がそれを覆すなら、先生は先生として覆して欲しかった。逆襲した折の先生のバックには官憲がいた。先生がやくざ相手にスパイごっこするには……なるほど、それで物語のリアルは保たれるだろう。でも一方でそれは、擦れた自分の目には何ともファンタスティックな後ろ盾に見えた。抗いがたいものに直面するとき、でも、俺らは一人で向き合わなきゃならない。だったら先生にも警察の犬じゃなくて、あくまで先生として戦って欲しかったんだよな。そして官憲バックにしちゃったら、いや、そもそもあんなチンピラ探偵なんて冷静に考えればそれこそ惨めな痩せこけた野良犬で、ちょっと引いて見れば、知らん内にそんなところ引っ張り出されて、最後なんてよってたかってまるでイジメに見えた。
たとえば、これがもし、ス いや、金八先生だったら大変うざいし、ぶち壊しだけれども、でも、捻くれものも救おうとしたと思うんだよな。
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