[コメント] グラン・トリノ(2008/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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『グラン・トリノ』はイーストウッド自身の作品でありながら、「イーストウッド映画的記憶に満ち溢れた作品」などと呼んでしまいたくなるような激しい狼狽を隠し切れない驚くべき傑作である。
例えば、心に負った深い傷により自らを責め続けるアウトロー。その心癒され続けてきた「世界一の女性」との別れ。自らの犯した罪を懺悔したくとも、その自らの思いを素直に表現できない無骨な頑固者といったキャラクターの造形や、車(やっぱりフォード!)はもちろんのこと、階段やポーチや風呂、動物や煙草(ちなみにイーストウッドは若い頃から嫌煙家として有名で、煙草をふかすのは映画の中だけである)、あるいは拳銃といった古き時代のアメリカ映画を思わせる小道具への執着ぶりなどを見ていると、やはりこの作品は、彼の出演作としての集大成を感じずにはいられず、観ている最中から、彼がこの映画にどのような結末を用意するのかが安易に予想され、私の心を絶えず動揺し続けたのである。
そんな思いを知ってか知らずしてか、物語はついにクライマックスの決闘(ここでは敢えてこんな言葉を使ってみたいと思う)を迎えるわけだが、前述のようにただならぬ結末を予想し身構えながらこの物語を見据えてきた私には、チンピラの銃撃から決闘に至るまでの静かな儀式の数々がやはり深く心にしみた。息子への電話。長年の日課であった芝刈り。調髪。死装束としてのスーツの手直し。愛犬と語らいながらの家での最初で最後の一服。そして教会での懺悔…。そして彼は決闘へと臨み、その命を落としていく。あれだけ拳銃を構えながら、結局1発も撃たぬままに。その姿の見事さは、あらかじめ予想されたこととはいえ、その予想をはるかに上回るほどの崇高なものであった。
思えば昔の西部劇やアクション映画など、イーストウッドが好んで演じた役柄、あるいは映画にもこういった決闘前の儀式的描写はよくあった。そしてそれらの儀式を経て決闘へと臨む主人公は、勝ち目のない、あるいは薄いと思われる決闘であっても最後はしっかりと勝利をおさめることが約束されていた。そういう意味でも、本作における決闘の結果も確実にイーストウッドの勝利であったと言えるし、最後主人公の分身とも言える『グラン・トリノ』を譲られたタオ少年は、何があってもその車だけは手放すことなく、彼の生きざまをも継承していくことだろう。そのような意味で本作の結末は、やはりハッピーエンドなのである。
このように本作は、最後主人公が命を落としてしまう作品でありながら、ハッピーエンドなどと呼んでしまいたくなるような激しい狼狽を隠し切れない作品でもある。そんな本作を前にして私が言えることは、イーストウッド御大にはもっともっと長生きしてもらって、1本でも多くの作品を残してほしい、ただそれだけなのである。
<追記>
蛇足だが、本作でも無名の役者を多数起用しながら、それらの役者が出番が増すごとに魅力的に感じてしまうところは、本当にイーストウッド・マジックと呼んでよい演出の精度だと思う。特にアーニー・ハーなどはその快活さがフィルムに刻みつけられるにつけ、作品上の御大ではないが、段々と彼女の魅力の虜になっていくのだから本当に不思議でしようがない。
また、御大と同じく自宅のポーチにて1日の大半を過ごす隣家のおばあちゃんも最高だ。こういう憎めないキャラクターをさり気なく挿入されられるところに、やはり御大の映画は手放せないと思わせる魅力の秘密があるのかもしれないなと、ふと思ったりもした。
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