コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] SR サイタマノラッパー(2008/日)

ニッポンのラッパーやヒップホップという“文化”を「なんだか恥ずかしいもの」として斜めに見ていた私の胸に、ズドンと突き刺さるライム&フロウ。レペゼぇーん!
林田乃丞

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 ライムとかフロウとかいう言葉もソレ系だったという後輩に聞いて憶えたのだけれど、とにかく私はいままであの、いかつい格好をしてヨーヨー言ってる彼らを「なんだかなー」と思って斜めに見てきたことは事実で。

 それはやっぱり彼らがその服装や言葉使いから醸し出す「借り物感」から来るものであって、ゆさゆさ揺れながら「ヘイメン」とか「チェキラ」とか言われても「おまえそれ最近おぼえたやつ使いたいだけだろ」という感じは否めないし、そういう舶来モノに馴染めないのは年をとった証拠だとはわかっていても、横文字の名前を名乗る彼らの表現に、その「表現者のルーツ」というか「心の奥底から来る叫び」みたいなものが、どうしても聞こえてこなかったのだ。

 要するに、ファッション先行に見えるのだ。どれだけ彼らが「日々の告白」をそのリリックに託したとしても、ギャングスタ・ファッションのフィルターをひとつ通して届けられるその声にエモーションを感じないし、彼らにも“外部”にそれを届けようという意思を感じなかった。同じファッションをしていない大多数に対するアプローチが、彼らからは見えなかった。

 日本のヒップホップは虚飾に満ちている。果たして『SR サイタマノラッパー』に登場する“SHO-GUNG”というグループの6人もまた、「頭からっぽのカッコつけマン」として私の前に現れた。

 だが、映画は自ら彼らの虚飾を引き剥がしていった。身体ひとつで東京で勝負するAV嬢(みひろ)に見下され、大人たちから奇異を見る目で訝しがられ、仲間だと思っていた先輩に貶められて捨てられ、丸裸にされた主人公のラッパーは、よく見ればどこにでもいる若者だった。夢に迷い、現実に打ちのめされて泡を食うひとりの情けない男だった。

 つまりは、彼もまたあのころの私たちだった。

「その服を脱いでサングラスを外したとき、君はそれでもラッパーでいられるの?」

 私が日本のヒップホップに向けていた偏見の根本はそこにあった。この映画のラスト10分で私は、今のヒップホップに若い世代が魂を乗せるだけの価値があることを知った。だからいま、それを“文化”と呼んでいいと思うんだ。

 *

 たまに、映画の役割というものを考える。

 私にとってヒップホップと同様に“馴染めないもの”としての若者文化が「ケータイ小説」というやつだった。何年か前に公開されたケータイ小説映画『Deep Love 劇場版 アユの物語』という作品に私は、今のところ唯一の★1をつけている。そのレビューに以下のようなことを書いた。

「始末が悪いのが、こうしたダメな作品が商業ベースに乗って評価されなかったとき(当然評価されないんだが)、支持者である少女たちにとってそれが「大人は分かってくれない私たちの物語」に変換されてしまうことなんだ。他にどれだけいい作品があったって、彼女たちは大人の評価に耳を傾けてくれなくなっちゃうんだ。そしてますますダメなものが世に蔓延するんだ。ダメなものをつくってしまうことの罪は、つまりこのダメスパイラルを起こしてしまうことにあるんだ。」

 あの作品を私が嫌悪するのは、それが世代間の断絶を引き起こす可能性をはらんでいるからだ。

 『SR サイタマノラッパー』はまったく逆の映画だった。理解され難いモチーフから普遍性を抽出し、ヒップホップと私たちをつないでみせた。映画が世代間の相互理解を促している。その意味でも、この作品を高く評価したいと思う。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (6 人)桂木京介 カルヤ[*] HW[*] まー[*] ぽんしゅう[*] 3819695[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。