[コメント] 20世紀少年<最終章> ぼくらの旗(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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1章、2章とどんどん薄れていった、「現実の世界でマンガのようなバカが行われる恐怖」という禍禍しさはもう露ほどもなかった。原作よりもこの映画シリーズのほうがマンガっぽく出来ているってずっと思ってきたけど、3章はそれに「出来の悪い」がついちゃったようで、もはや原作のテーマたる「現実感」なんてことはさて置いて、ふつうのフィクションとして出来が悪かったと思う。数多のフィクションが何度も描いて来た「世界の破滅」やら「敵集団との最終決戦」と比較したって、本作はかなりワクワク度においてレベル低いように思う。
今回の3章、「世界への最終ウィルス攻撃とそれを阻止するものたちの対決」ということで、1、2章と比べてもとりあげるエピソードが絞り込まれている。ぶっちゃけ敵アジトに侵入してともだちを倒すっていう流れと、ウィルス攻撃に晒される群集を助ける(カンナたちのフェステイバル開催とキリコ、マルオ、ケロヨンたちのワクチン開発)っていう流れ&ケンヂと仲間たちの合流をテンポよく演出しておけばOKだと思う。謎を提示し回収し、相当の登場人物や複雑な説明を短時間にさばかなきゃいけなかった1、2章より簡単そうに思えるんだが、そうでもないってことなのかなあ…難しいもんですね。敵アジトを襲撃する、ヨシツネ、オッチョ、チヨジたちがどこでどういう順番で何を目的に動いているのか、同時なのか、時間差なのかがわかりにくく、砦攻略物での誰がどこにいて何をしてっていう連携プレイの面白さ、ステージを繰り上がっていく面白さが弱くどうにも散漫な印象だった。このシークエンスの手捌きの拙さは、フィクション世界へ入り込むのに足を引っ張った感がある。
次にVFXのしょぼさ。ロボットはまだしも問題は円盤だ。これシリアスでないどっちかというとギャグタッチのマンガ(子供の絵が元だもんね)に登場する「いわゆるアダムスキー型」っていうデザインを、実際に作ってしまうっていう悪意を感じさせなければならないのに、ただ単にCGがヘタでこうなっているようにしか見えないところがきつい。実は相当難しいんだと思うけど、あのマンガチックなデザインで、リアル(を感じさせる)重量感を伴った動き、みたいな演出でないとダメなんだと思う。CGじゃなく大きなスケールの模型を作って、ハイスピードカメラで撮るとか。なんかこういうところひとつとっても場面に対するこだわりが足りない感じがする。
あと、群集シーンの演出に不満。円盤の飛来シーン、フェスティバルのシーン、人類って若者だけか? 偽造通行手形で関所を通りぬけた群衆の「わ〜」っていうあの緊迫感のない演出はなんなんだろう。やっと関所を通れた安堵感、家族の再会や我が家への帰還に喜んだりとかじゃないよね? もうドラマを描いてないよね、この辺。なんかヘタだとかっていうより意図が変。2章の新宿パレードと比較しても、群集シーンの緊迫感のなさは今回際立って酷い。これ邪推だけど、監督が大勢のエキストラの前で、もうすぐ撮影も終わるって思って、浮かれちゃってるんじゃないだろうか? お祭り気分。
ロックフェスのシーンなんて、「スーダラの歌だけが希望で集まって来たんだ」っていうより、まま「話題の映画『20世紀少年』クライマックスシーンのエキストラに来たんだ」って雰囲気が漂ってるっていったら言い過ぎ? 監督、「ハロハロ音頭」のところ、エキストラにはままフェスを楽しんでもらって、その様子をそのまま撮ればいいやくらいに思ってなかったかな? 全然違うでしょ。テロ集団「氷の女王」の言うことを信じる、信じない、っていう家族の間にも葛藤があったりして、やっぱ「もう、ともだちは信じられない」って振り切ってここに来ている人たちでしょ。世界が破滅するかもなんでしょ。絶対あんなノリノリなわけない。(これ原作もこんな感じなのかも知れないけど、シリアスと誇張を軽く行き来できるマンガならできるウソだと思う。それをそのまま実写しちゃうとやっぱ変なのだ)
しかも、円盤がウィルスを撒布し人々が次々嬲り殺されていく凄惨なシーンとハロハロ音頭で盛り上がっている場面が、曲が途切れないままフラッシュバックするんだけど、これだと相互の場面に明暗とか勝ち負けとか「対比」の意味が付加されちゃいませんか? モンタージュ論的に。ハロハロ音頭で躍っている人たちの勝利宣言って意味がいやでも付いちゃわないだろうか? 「ハロハロ音頭」で盛り上がっている集団がともだち信者たちで、殺されるのが一般市民、とかっていう場合に、ともだち一派の残虐性が強調されて見えてくるっていう映画文法にはまっちゃうでしょ。ただの「同時進行」を言いたかったのなら、殺戮シーンにハロハロ音頭を被せる意図がわからない。いや、これは対比の意図であって、それは氷の女王を信じた者と、信じなかったものの差だ、っていうのかも知れないけど、フェスに「行く、行かない」の決断をそこまで登場人物たちに迫ってないし、仮にそう描けてたとしたって、これ勝った負けたって話にはならないでしょ。同じ同胞同士であの明暗の差はおかしくないか。この場面、どう感じていいのか、どう過ごしてよいのか、まったく理解できなかった。ミスっていうより編集事故だよ。
蝶野が祖父の仇をとるべく元警察庁長官に手錠をかけるシーンのドラマの弱さはなんだろう。監督、もう疲れちゃったのかな…。
カンナがケンヂと再会し泣きじゃくるシーンって、あそこで初めて氷の女王の表情から憑きものが落ちたようになって…ていうふうに意図してたんだろう。平愛梨ちゃんのインタビューを読むと、監督に「氷になれ氷になれ」ってずっと注意されていたらしい。でも、いまひとつ氷がみるみる溶け出して…って感じになってなかったなあ。てことは氷になりきれてなかったってことだな。自分があのともだちの娘だったと知って以来、彼女は贖罪のために心を閉ざしたのだ…愛梨ちゃんもう一歩だったなあ。
ともだちの正体については、フクベエ・カツマタ君の二人だったっていう原作よりもかえってこっちのほうがよかったと思うし、駄菓子屋のバッチを盗んだことをあやまるシーンなんて、映画では入れる場所が難しいと思ったけどうまく入れてたし、常盤貴子と小池栄子の格闘なんてこの映画がなければ存在する事がなかったような夢の組合わせだったし、原作の一巻の冒頭の「放送室ジャック」のシーンを最後に持ってきたのは嬉しかったしうまかったと思う。ただ、カツマタくん覚えていた人ってあんまりいないんじゃないか?っていうのと、フクベエ=フクベ=服部(ガキどもはハットリと読めなかったのだ)=忍者ハットリくん=ともだちの正体のヒントっていう原作のネタはきちんと回収して欲しかったな。
ケンヂに縛られた放送委員の女の子のしゃがんでるポーズ、原作とビッタシ同じなんだけど原作はパンツが見えてたよな…とかはまあいいか。
パンチラっていやスピリッツのグラビアで女子高生の制服姿で木南晴夏がボウリングをしていたけど、思わせぶりだよなあ、そんなシーンなかったじゃん! チラは無理としても見えそうスレスレくらいは期待してたのに(原作では小泉響子は神様(中村嘉津雄)にプロ並にボウリングを仕込まれるのだ)。
焼き鳥屋で春波夫がビリーを指して「おれがドラムでこいつがベース」っていうのが、この映画で一番「ええっ」って思ったシーンだったりして。
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