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[コメント] いまを生きる(1989/米)

自分も似たような環境の進学校にいたんだが、この映画を見直して思う。あの悪者にされたガリベンの彼いたでしょ? あいつが一番正しいんす。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 何故か?

 この映画を初めて観たのは、いや見せられたのは、その自分が通っていた進学校でのことだ。当時は、これをおまえらが俺達に見せるのか? と、ふてぶてしく感じたものだ。そう、当時の俺は、自由を渇望する側に百パーセント感情移入しながら観ていた。俺達も、ひっくり返そうぜ! ってなノリだった。

 しかし、そこには例の悪者にされた彼のような存在、言われた通りに勉強したいだけの連中もいた。・・・白状するが、ソバットをかましたりもした。よくなかった。

 だって彼らの何が悪かったというのか? 将来のために今を犠牲にする彼らの何が悪いというのか? もし本当に自由を求めるなら、最後に机の上に立った者達も、かつての俺も、自己責任においてドロップアウトするべきだったのであり、システムの方針に反しない連中の邪魔をする権利などこれっぽっちもありはしないのだ。

 そもそも進学校というのは、個人の自由には程遠いシステムだ。蔑ろにしていると言っても過言ではない。しかし、それを運営する側も、金を出し子供を送り込む親も、ある程度は子供自身も承知で入ってきている。その是非はそれを許容している国が負うべきものであり、国により許されている当事者達には何の罪も無い。敢えて自由を求めようと思ったなら、そう、そこを出るしかないんです。

 しかし彼らはそれをしなかったし、俺もしなかった。する勇気が無かったのだし、する能力も無かった。たった一人で反乱を起こし追い出された彼、追い出されたといっても、彼は出て行ったようなもので、正しかったのは彼だけ。彼にはその勇気があったのだし、おそらく自由の責任を請け負うだけの能力もあることだろう。

 無責任な自由ほど醜悪なものはなく、責任にはそれを果たすだけの能力がいる。それを持ち合わせていない者達に、好んでシステムに隷属する彼らガリベンたちを邪魔する資格、いや邪魔する意味も意義もないんです。

 高校なんて三年我慢すれば、おさらばできるんです。思想の自由なんて、それから大学入ってからでも遅くはない。ままごとでない自活に裏付けられた思想の自由に見合う能力なんて、大学の年齢になってようやく自分の中にあるんじゃないでしょうか。高校生達の自由を否定する気なんてさらさらないですが、少なくとも“あの先生が正しい”と判断できるような材料は彼らの中にはなかったと、自分は思います。かつての自分には絶対ありえなかった台詞ですが、勉強できるってのはやっぱり富める国に住む者、しかもその中でも一部の人間の特権なんですよ。不満もあるでしょうが、詰め込めるもの詰め込んどくってのも、あながち悪いことではなかったと今は思う。その傍らで溜まっていくものがあれば溜め込んで、大学入ってから爆発させればいい。

 しかし、その溜まっていくものがただの欲求不満ではなく、確固たる思想的な、文学的な、詩的な産物であったなら、今の大学生のていたらくはどう説明つけるべきなのであろうかと思ったりもします。ひょっとしたらガリ決め込んでた彼、あんなヤツの方が大学入ってからよっぽど凄いこと考えるようになっちゃったりするのが現実なんだと、その後の人生で実感した次第です。

 ちなみに俺、あの先生の詩的感性までは否定できません。いや、できないからこそ、あの子の死の責任は間違いなくあの先生にあるとしか思えないんです。器が未完成の未成年に純度の高いアルコールを一気飲みさせたようなもの。一気飲みはやっぱり、やらせちゃならんことなんですよ。

(評価:★2)

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