[コメント] 空気人形(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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必ずしも平易ではなく、むしろ難解と受け取れる映画だが、それにしても、これほどキーワードらしいものが簡単に拾える映画というのも珍しい。まず繰り返し語られる、「代用品」。「性欲処理の代用品」である空気人形が、レンタルビデオという「代用品」の集まる場所に迷い込む。しかし、「映画館こそがオリジナルな体験の場だ」などと語る人は、そもそも映画自体が現実の代用品でないと言い切れるのだろうか? メモ片手にテオ・アンゲロプロス作品を探す根暗なオタク客(後、バイト)はあまりに紋切り型ではあるけれど、悪逆非道な汚職刑事の登場する映画を探す寺島進が、交番で花に水をやる善良な警察官であることが明らかとなると、映画もまた代用品、というこの類推は否定しがたいものになる(どうでもいいけど、あの映画の探し方は迷いがなくてカッコいいですね)。外の世界へと踏み出した空気人形が熱心に学ぶものが、映画についての情報(「『メリーに首ったけ』はかなり笑えるらしい」)、というのは奇異ではあるけれど、かえって嘘らしさはない。「代用品」が「代用品」のない現実に出会うほうがよっぽどおかしいのだ。
この「代用品」というテーマが語りだそうとしているものも、はっきりとしている。ヘルメットと写真とがARATAの過去の(死んだ?)恋人の存在を物語り、もう一体の「のぞみ」が登場するあたりで、死の臭いが映画を覆い始める(詩の引用はさすがにダメ押し的か?)。人形工場で明かされるように、代用品とは、量産されやがては廃棄される存在、にほかならない。だが、だとすれば、代用品の不安は、なにも人形に特殊なものではない。板尾創路は「お前の代わりなんかいくらでもいるんだぞ」と厨房で説教を喰らい、受付け嬢の余貴美子は「あの女はただの派遣だ、あなたの代わりなんかいない」と留守番電話(会話の代用品)を使って自らに言い聞かせる。この二人ともが、老いに不安を感じ始めているのは、偶然ではないだろう。「いくらでも代わりのいる」固有性のない日常と取り替えの利かない確実なこの自分の死のあいだに怯える、これは人形というより人間の不安だ。同じはずの人形がみな違った表情で戻ってくる、と語る人形師(オダギリ・ジョー)は、ためらいがちに、しかし、ほのかな希望をにじませて、「君が見た世界になにか美しいものはあったかい?」と尋ねる。量産され廃棄される存在であっても、「きれい」と思わず口にしてしまう瞬間に出会う。というわけで、人形の物語は、なんのことはない、人間の物語だったのである。
この映画の鋭利さと退屈さはここにある。結局、この映画は全編を通じて過度なほどメタファーとアナロジー(類比)に依りかかっているのだ(それ以上にペ・ドゥナという存在に依りかかっているともいえるが、これについては依りかかるのが圧倒的に正しかったことはすでにみなさんが認められている通り)。人形が物語の主人公でありながら、人間についての映画であると誰の目にもはっきりわかってしまう、これがこの映画の豊かさと貧しさの本質である(『イノセンス』のように、誰もがなんのためらいもなく人形について云々してしまうような映画が正しいかはともかく)。
たとえば、「心を持ってしまった人形」という劇中でも明示される設定はどうだろう。「心なんか持たなければよかった」と語られたとしても、漫画『人造人間キカイダー』の如く、ピノキオは人間になって幸せになれたのだろうか、と背負われる心の重荷が予期されるわけではない(自殺は悲劇に向かうしかないこの物語にふさわしい結末だが、しかし、自殺ほど「こころ」なる謎を事後的にでっち上げるのにうってつけの装置はないことには注意したい)。あるいは、人形が心を持つという事態によって、人間が当たり前のように口にしている「心」が疑わしいものへと変貌する、そうしたSF的な意匠ともこの映画は無縁である。むしろこの映画においては、人間が心を持っていることが自明であるように、人形も心を持っているのであって、誰もその点は問題にしない(板尾の「めんどうくさい」というセリフによって、人形の「人間らしさ」は完全に追認される)。というより、心を持ってしまった人形という空虚たらざるを得ない存在を通じて、人間が空虚を抱えるそのことを描こうとしているという意味では、人形が心を持つように、人間が心を持っている。人形という無垢の存在をいったん持ち出すことによって(「めんどうくさい」人間をいったん排除することによって)、ともすれば類型的に陥りがちな登場人物たちにやすやすと「人間らしい」心が密輸入されているのではないだろうか。
ラスト。ARATAは「何でもする」という人形に「空気を抜かせて欲しい」と頼む(最初に言ったのは、「入れさせて欲しい」ではない)。いかにも「メタファーだ、解釈してくれ!」といわんばかりのシーンで、実際、解釈の余地を残すが、けれども、人形と人間のあいだにのみ成立する関係を人間同士の関係に置き換えるのは、やはり不正だ。もっと単純に解釈していい。いったん空気を抜き、息を吹き込む(=生き返らせる)、というこの要望を通じて、はじめてARATAは人形を、失った恋人の「代用品」にしてしまったわけである。だが、死んだ人間に文字通りいのちを吹き込むことなど誰にもできない。偶然味わってしまった一度の感覚を忘れられず、その基本的なルールを故意に破ったために、ARATAは人形と間違われて殺されてしまうことになる(「あなたのプラグはどこ?」)。「いのちはつながっている」とか「人は一人では完結できない」とか「すべての存在は互いになにかを与え合っている」とか、こういう一連のメタファーやアナロジーは、それ自体間違いであるかは別の問題として、必ずしも文字通りに機能するわけではないのであって、その点は誤解しないほうがいい。ただの思いつきでなく入念に練り込まれている分、この映画にはそれをどこか誤解させる部分があるように思う。
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