[コメント] 第9地区(2009/米=ニュージーランド)
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などということはほぼどうでもよいのだが、主人公シャルト・コプリーの「ヒトでなくなっていく」ことの恐怖や悲哀、ユーモアがじゅうぶん出ていないのは展開に次ぐ展開で畳み掛ける語りとの二律背反か。
着想(世界観)は非常に面白く、またその着想を現実感を伴わせながら実体化できているにもかかわらず(「猫缶詐欺」なんてとてもいいですね)、そこからさらにアクション映画に舵を切ってみせるという心意気も大変好ましい。しかし肝心のアクション演出は致命的に拙い。終盤、ロボスーツ(?)に乗りこんだコプリーが大佐デヴィッド・ジェームズの放った砲弾をひょいと掴む。面白いアクションは全篇を通じても正確にこの一ヶ所のみである。
エイリアンと人間はなぜか問題なく言語的コミュニケーションが取れる。またエイリアンの行動のみならず、その原理すなわち思考回路もほとんど人間と変わりがない。たとえば、父エイリアンが子エイリアンの頭を「よしよし」とばかりに撫でる場面がある。しかし私たちホモ・サピエンスの間にさえ「子供の頭を撫でる」ことが愛情表現とは見なされない文化があることを『グラン・トリノ』は教えていなかったか(というか、常識として知っていますよね)。要するに『第9地区』はエイリアンに相当割り切った設定を与えている。その割り切りは支持するけれども、そうであるならばやはりエイリアン親子の感情表現の演出はもっと繊細になされなければならない。ニール・ブロムカンプにしても決して低い志でこの映画を撮ったわけではないはずだろう。制作規模の大小もスタッフ・キャストの素性も「観客」には関係のない事柄である。世界中の観客に向けて映画で勝負をするということは、つまりピクサーやアードマンと同じ土俵で勝負をするということだ。非-人間の感情演出において、『第9地区』と世界トップレヴェルの映画とではいかんともしがたい大きな差がある。
中盤、腕を治すためにはラボから「液体」を取り返さなければならないというくだり。コプリーがギャングからエイリアン武器を奪取したかと思ったら、その直後にはもう親エイリアンとともにラボに乗りこむシーンになっている。この省略ぶりはよい(正確にはMNU重役のシーンを短く挟みますが)。最も燃える瞬間である。
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