[コメント] ゼロ・ダーク・サーティ(2012/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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表参道に東京ウィメンズプラザという施設がある。東京都が運営している機関で、お堅く言えば、男女共同参画社会の実現のための活動をすると言う大義が掲げられている。各種公開講座やセミナーが開かれ、DV相談室もあり、女性なら知っておいて損は無い施設だろう。かれこれ20年近くは前のことだが、調べ物があってその図書資料室を訪ねたことがある。すると図書資料ばかりでは無く視聴覚資料もあり、館内で視聴が出来ると言う。まあ、官公庁の制作したPR、啓蒙ビデオの類いが並んでいるのだろうと棚を見ると、普通のレンタルビデオ店宜しく映画ビデオも陳列されていた。ぱっと見て目に付いたのは『グロリア』『エイリアン2』で、ああ成程、ジーナ・ローランズやシガニー・ウィーバーが、新しい女性像を提出したと見られているのだな、と領解した。『グロリア』が1980年、『エイリアン2』が1986年の映画だから、2012年の本作まで優に30年が経過しており、将に隙駒である。30年の年華を経てマヤ(ジェシカ・チャステイン)が現れた意味を問う。
今や米国軍の20%を女性兵士が占め、過去12年間でイラクとアフガニスタンに約28万人の女性兵士が従軍している。最前線へ行けないのは女性差別であると言う女性兵士からの訴えもあり、基準さえ満たしていれば女性も男性と同様、前線で戦闘行為を行えるようになった。前線の兵士の女性差別は撤廃されつつあるが、上層司令部に於いては未だ“ガラスの天井”が存在すると言われる。マヤは一見、このガラスの天井と戦う女性のように見える。この映画がcontroversialなのは方々からの情報から知れることで、‘拷問を正当化している’とか、‘遺体はUBLと確定していない’とか、‘いや、アメリカの正義に疑義を投げかけているいい映画’とか各所で囂しいが、それらは表層的なことに過ぎないだろう。“拷問”(“enhanced interrogation techniques") が描かれているのも、遺体がUBLであったかどうかが不確定に描かれているのも、皆deliberatelyに決まっているだろうに、何故そこを看過するのだろうか。
男に出来て女に出来ないことは無いと、あるフェミニストは言う。成程、バーリトゥードなんかを見ても、今や女には出来ない男の世界とは思わないし、残虐さにかけたって女性殺人鬼の名は即座に数名の名を挙げられる。そう、だから‘女らしさ’は男による押し付けであり、その真実に反駁するのはbias野郎(女)であり、その事実を認めないのは差別主義者である、とレッテルを貼られる。だが俺は、前作『ハート・ロッカー』を観た時にも、この『ゼロ・ダーク・サーティ』を観た時にもずっと思っていたことがあるのだ。それはこの兵隊の中に大江麻理子がいたら、と言う仮想である。ララ・ローガンとしてではなく、ヘルメットを被り迷彩服を着た一歩兵として大江麻理子がいることを想像して抑え切れないのだ。兵隊の資質と言うものは確かに存在し、男でもこの資質に欠ける者もいれば、女でもこの資質に優れた者がいる、ただそれだけである、と言う見かけの正論から言えば、実際にヘルメットを被った大江麻理子が混交する機会は無いと言える。だが、真に‘女らしさ’を認めないのであれば、特訓に次ぐ特訓を重ねた大江麻理子が独り爆弾の信管を外しに行く姿を見られることが、男女共同参画のあるべき姿であると言うべきではないのか。この戦場に参画することはどのように女性の解放に繋がるのか、女性兵士は歓迎すべきと無条件に言って良いのかと自問するのである。
15年以上も前に東京ウィメンズプラザを訪れたのは、売買春、ポルノグラフィーについての資料を渉猟してのことである。アダルト・ビデオは1990年代には市民権を得たと雑録本に記述があり、何を以て市民権とするのか的然で無いが、数千億円が斯界の市場規模と聞けば、強ち無理な主張では無い。その'90年代に入ろうとする時、女性AV監督を担ぎ出して、ポルノ(AV)も男女同権社会だ、と意見広告を載せた連中がいた。アホらしいにも程があるが、今も昔もフェミニストいびりは簡単なのでバカはやりたがる。あるAV女優は言った。「カメラの前でセックスすることに抵抗は?」「カメラがあるから安心して出来るんです。カメラが回っていなかったら怖いです。何をされるかわからない。もしかしたら殺されるかも知れない」。これを極論と見るのは浅薄に過ぎる。今では“Bukkake”はポルノの一ジャンルとして世界中のポルノ愛好家共通の用語になっている訳だ。森下くるみの『ザーメンバトルロワイヤル』でも見れば俺の言わんとしていることは伝わるだろう。戦場とはポルノの場と近似、いや同義であると言うことである。戦場にレイプは不可欠という意味では無く、冒頭の拷問シーンは女性が被尋問者であれば、これは即ポルノ作品である。ある種の欲望を神学化している教徒でなければ、そこで息をすることさえ醜穢に思えるという点に於いて、戦場とはポルノと全くの同義なのである。毎年アメリカでも日本でもポルノ(AV)作品の表彰が行われる。年間優秀作品が選ばれるのだ。圧倒的な男社会であるポルノに於いて、女性監督が受賞したらそれは何を意味するだろう。ところが、それがマヤの立ち姿なのである。マヤは男によって担ぎ出された女性ポルノ監督に過ぎない。それがこの映画で女性監督キャスリン・ビグローが提出した新たな女性像である。
話は俺の高校時代へ飛ぶ。俺は生来の怠け者で試験勉強に兎にも角にも身が入らない。中間、期末、中間、期末(試験)と、毎度のこと一夜漬けである。試験も三日目くらいになると吐き気との戦いになり、毎回もうこんなことは止めよう、コツコツ勉強する生活に変えようとトイレで嘔吐きながら誓うのだが守られた試しは無かった。そんな話を級友としていると、「俺もだ。女に生まれたかった」と唐突なことを言う。真意を尋ねると、要は“女というものはきちっとしており、我々のような付け焼き刃バカはいない。このクラスの女子は皆、勉強を就寝前に終え、ぐっすりと睡眠を得た上で試験を受けている。だから女に生まれたかった”と、こう言うのである。それは俺の前席のKと言う女子を見ればあっさりと否定出来るほどの思い込みによる女性観なのであったが、メイクのために毎朝早く起きて出勤する女性陣を見ていると、級友の言もまた無下に否定は出来ないのではないかと思う。前席の女子Kは剛の者で、鬼教師の授業でも平気で寝ているし、指されれば宿題をやって来なかったことをアッケラカンと教師に告げて「どうぞ」と俺に強制的にバトンタッチをして恬としている。このKが、高校卒業後5年目の同窓会に連れて来たのが男装の女性で、'80年代当時は未だトランスジェンダーと言う言葉すら知れ渡っていなかった。Kは彼氏と言って皆に紹介したが、どうも真剣に付き合っている風では無く、アッシーくんとして利用しているのがありありで気の毒であった。男装の麗人は高そうなスーツに身を固め、日活映画さながらに眉間に皺を寄せて斜に煙草を喫っていた。それがどうにも男である自分から見ると、過剰な男性演出なのである。聞けばサラシをきつく巻いて胸を潰していると言うし、勧められた酒は「自分はKさんを送って行く義務があるので」と言って固辞する。帰るさまに車を見ると漆黒のピアッツァであった。roleが決まっていると、人は過剰な努力をしてそのroleを演じる好個の例であった(これを“物語”と呼ぶのが適宜であろう)。そう、これがマヤが仕事熱心な理由である。
マヤは実に仕事熱心である。対して男性上司連は、彼女ほどの熱意を持ってはおらず、逆に彼女の熱心さを小馬鹿にするような態度を取る。だが、これは男性上司が無能であることを意味しているのでも無く、彼女が優秀であることを意味しているのでも無い。彼女の熱心さの原動力になっているものは、テロリストに対する怒りでもアルカイダを罰したいと言う正義感でも無い。ただ彼女は与えられた仕事を完遂したいだけなのだ。CIA上官同士の会話を聞こう。「彼女はsmartですね」「いや、我々は皆smartだよ」。このbackbiteは何だ? 彼女は無理をしなければsmartになれないが、我々はspontaneousにsmartだ、と言う表明だ。これを性差による発言とすれば差別発言だが、この脚本はそんな凡庸な解釈は許さない。マヤが仕事に対して“無理”をしなければならない理由。それは彼女が“高卒”だからである。上官の「君は何年になるね?」と言う質問に対してマヤはこう答える。‘Twelve years. I was recruited out of high school.’何年か前になるが、CNNを見ていたら、CIAのリクルートについてがトピックだった。CIAは高倍率で、優秀な人間しか採用しないと言う神話があるが、実のところリクルートには苦労をしていて、CIAに行きたいと言うアイビーリーグの学生は年々減少しており、今や何とか有名大学の卒業生に来てもらうよう尽力するよりは、気質的にタフな普通の学生をone on oneでlureするようになっている、と言うものだった。CIAのリクルーターが学内にいることが露見するとPrestigious universityでは学生のシュプレヒコールに遭って追い出されてしまうのだ。そういった潮流でのマヤのリクルートだったのだろう。これは日本のニュースで、学歴詐称で数人が解雇されたと言うトピックをやっていたが、通常知られている学歴詐称とは、実際より上級の学歴に虚飾するものと了解されているが、ここで公署を馘首されたのは大卒の人間であり、採用の際、高卒と偽っていたことが問題とされた。これを聞いて思い出したのはある大企業の社長が、「大卒は理屈ばっかり並べるから、ハイハイ言って聞く高卒の方がいい」と臆面も無く語っていたことである。これには大学紛争時の過激派の残影もあると思われるが、ここにもマヤが仕事熱心な理由を領会するための手蔓が見えている。
マヤは利用されたのだ。俺の級友が40年近く前に図らずも口にした「女は男より真面目」と言う演繹は間違ってはいなかった。その生真面目さをマヤは具備していた。一般論で言う“真面目さ”は男女の別無く存するが、女性特有の“生真面目さ”が無いと果たして言い切れるだろうか? フェミニストはそんなものは無いと言い切る。だが、マヤをリクルートした人間は間違い無く“利用出来る生真面目さ”を18歳のマヤに見出していたのだ。マヤがイスラマバードのアメリカ大使館に着任した時、backbiteで「若過ぎないか?」と言うダニエルに対して支局長は「ワシントンはkillerだと言っている」と答えた。killerの資質については『レオン』評に書いた通りだ。見抜かれていたマヤのkillerの資質もその変奏として収まる。
最後にマヤは涙した。これを、UBLかどうか判明もしない殺人仕事に現を抜かした虚無感の涙とするのは余りに投影に過ぎるだろう。大仕事が終わった時に人はreliefの感情、安心感によって落涙する。長らくの緊張が解け、ほっとした時の涕零。マヤの流した涙はそれだ。彼女が完璧に仕事を遂行しようとする姿は、ブリンカーを装着した競走馬を思い起こさせ、仕事に耽溺する姿は強迫的ですらあり痛々しい。通常(と言うのも変だが)motherfuckerと言うFilthy Wordsはコントロールの効かない感情故の発話だが、マヤの場合は“態と”であり、自分に足りない野蛮性(そこに列席した男連中が苦もなく共有している何か)を演出する為のspitとして発話された。彼女は徹頭徹尾無理をしている女として描かれていることをもっと重要視するべきだろう。
ラストの急襲のリアルは、現実を追ってのリアルでは無く、付けいる隙の無い“男社会”のリアルであり、これは前作『ハート・ロッカー』の延長線上にある。実際は数分の出来事だった行動が、何と20分に渡って描写されるのだが、この描写は実のところアルカイダも関係無ければ、戦争すら関係無い。精細に続く描写は、男社会のエッセンスに対する驚きの表明であり、そのエッセンスとは敢えて言語化すれば“相手を慮ることの無い一元論的精神”と呼べるものだ。別言すれば徹底したモノの世界である。911がどうのビンラディンがどうのに囚われていてはビグローの提出した、映画史に於ける初めての女性像を見落とすことになるだろう。本作は女性映画ジャーナリスト同盟賞で、作品賞、脚本賞、主演女優賞などを総なめにしているが、マヤは一歩踏み外せば、スーツを着たリンディ・イングランドに堕していたかも知れないのだ。本作に対する賞賛は一体何に対してだろう。果たして本作は東京ウィメンズプラザの棚に置かれているであろうか気になるところである。
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