[コメント] ケイコ 目を澄ませて(2022/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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その秘密はどこにあるのだろう、たぶん仕掛けは声以外のさまざまな音、生活音や環境音だ。ペンが紙に擦れる音や、駅前の雑踏、サンドバッグの軋む音、高架下の車の音など、ふだん意識に入ってこない音だけを取り出されて聴かされているうちに、ああ、こんな音鳴っているよな、と気にするようになり、次第に自分が「耳を澄ます」体勢になっていることに気付く。これが画面への集中力を増していくのだろう。
そこに意味を持つもの、「言葉」や「表情」が入ってくると、そういったものから受ける強度が高い。たとえば記者からインタビューを受ける会長の、ケイコの才能や人柄について朴訥と語るところ、後ろで少しアウトフォーカスで会長の言葉に頷いている林の微笑み、カットが切り替わって、遮断機の前でどこか虚ろを眺めているケイコのアップ、それに被さる後姿の母親の「いつまでボクシング続けるの」という台詞、今度は母親の顔が映る反対側のカットに変わって「ここまでやれただけでも大したことじゃない」という台詞。台詞割りとカットつなぎ。それによって、その言葉を発する人の性格、その人の考え方、その時の感情などが込められて台詞というテキスト以上の表現が成立している。文字以上の、文字だけではできない表現、これこそ映画(映像)の表現だ。そしてふだんは気にも留めないだろう、そういうスタンダードな映画文法の演出意図にまでも求心力が高まっているのを実感した。より強く場面の言わんとしているところ、役者がその表情や台詞の抑揚から、何を一番伝えようとしているかとか、たぶん普段の映画鑑賞より目や耳を澄ませて見ていたのではないだろうか、と思う。
ケイコはふだん会話のない世界にいる。手話や筆談によって言葉がない世界にいるわけではない。が、かえってそれが、音を聞くことができる人間が無意識に生活音や環境音を見落とす(聞き流す)ように、ケイコは最小限の「自分に向けられてくる会話」以外を、どうせ自分にはわからないといって無意識的に目に入っていても「見流す」ようにしているのだと思う。そしておそらくは孤独の中に自分をおいて、自分だけで問題を解決しようとするのだろう。結局セコンドの指示もほとんど受け取れない自分はこれ以上上に行けない、したがって続けていくことに意味があるのだろうか、少し休んで考えたい、と思う。 が、その手紙を渡しにジムを訪れた時、先日の自分の試合のVTRを会長がセコンドのようにアドバイスを発しながら振り返っている姿を見る。そこでたぶん「自分に向けられてくる会話」以外のものの大事さに気付くのだ。会長の病気やジムの閉鎖に他の人たちが、他の人たち同士が今何を思い何を考え何をしようとしているのか、目を澄ましてみようとするのだ。そうして、スパーリングでの松本の言わんとしていることを以前よりもっとその意図をくみ取ろうとし、弟の彼女の自分への遠慮や気遣いにも気付いていくのだ。
ケイコは次の試合でKOで完敗し、また自分の才能の限界に打ちひしがれる。そこに工事現場の作業服姿の対戦相手が「この間の試合ありがとうございました」と声をかけてくる。勝利した彼女も決して恵まれた環境でボクシングをしているわけではない、そしておそらくケイコのようなハンデを持ちながらもボクシングに打ち込む姿に少なからず勇気をもらってボクシングをしているのだ。会長の闘病する姿に奮起したようにケイコもまた自分の姿に奮起した人を知る。そしてもう一度前を向き始める。
ゑぎさんのレビューを見てふと思ったのが、この作品の2020年から2021年という時代、これはコロナ下で直面することになった孤独や断絶の中にあっても、それでも人と人は関与し合うし影響を及ぼしあうのだ、ということについて描いた作品なのかもな、ということだった。断絶を感じた時、もっと目を澄ませ、耳を澄まして、他人を見ろ大事なものを見逃すな、というメッセージではなかったか、と思う。
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