[コメント] ゲームの規則(1939/仏)
将棋を全くご存知でない方、申し訳ありません。
「ゲーム」と聞くと、昔ハマリにハマった将棋をイメージしてしまう私。古今東西、チェスやチャンギ(中国将棋)など、将棋に似たゲームは沢山あるし、漢字からでも、コメントの「―手」の意味はなんとなくでもおわかりになるでしょう。
さて、この作品『ゲームの規則』は、まさに「映画としてのゲーム性」であり、「生きていくこと、それについてのゲーム性」であると思う。(あえて「人生ゲーム」とは言わない。)
将棋は、駒を一つも動かさない最初の状態が「完璧な布陣」である。
だが、生きていく上で、必ず誰かと関わりあうことが不可避であるように、人は誰かと盤を挟んで向き合ってしまうと、駒を動かさずにはおれないのだ。「目の前に山があるから山登り」と同じこと。一旦、初手を指してしまえば、その後いかなる手を続けようとも、ゲームが終わるまでは、指し続けずにはおられない。勝負の行方に関わらず、「指す」ことが「生きる」ことであり、「楽しみ」であり「悲しみ」であると思う。そして、その指される「駒」は、現実で言うならば「言葉」であったり、「視線」であったり、コミュニケーション行為であると言えよう。そして、どんなゲームにも、必ず、「ルール」というものがある。
この映画の登場人物たちは、まさに盤上の駒のように縦横無尽に立ち回る。女主人公が「王将」とすると、夫は「角行」、飛行士は「飛車」、あの太っちょさんは「桂馬」、召使たちは「歩兵」といったところだろうか。最後は「歩兵」が「成金」になって…おっと、これ以上は言えないな。とにかく、その「駒」ひとつひとつが発する言動が、駒それぞれに動かせる場所には制約があるように、その「駒」なりの特徴や流儀があって、実に興味深く面白い。それぞれの登場人物の言動が、「ああ、あれは妙手だな。うん、あれは悪手」と思いをめぐらせる楽しみに溢れている。
言うなれば、ルノワールはこの『ゲームの規則』の名人プレイヤーである。
ただ、個人的に残念なのは、その駒を動かす上での思考・思想がやや表層的で、シェークスピア喜悲劇的な容器に落ち着いてしまった感がある点だが、勿論、その先の「破壊」を望むのは個人的な要請であって、また、作品がそうであるからこそ、普遍的な意味での「古典」と位置づけられる所以であろう。それに、この作品以降にしても、その「破壊」に成功したストーリーテラーは稀有なのだから。
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補足:
コメントにある用語の意味について、お知りになりたい方は、
http://homepage2.nifty.com/cog/word/shogi_list.htm
や
http://homepage1.nifty.com/thara/menu/shogi/yougo/yougo1.htm
に詳しくあります。
ルールを知らなくても、その用語の意味が、華麗なる「人生ゲーム」のためにお役に立つこと請け合いです。
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