[コメント] 踊る大捜査線 THE MOVIE(1998/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この作品が映画として失敗しているのは、フィルムの上に1本の線を紡いでいくという映画のフォーマットの上に、断片的かつ間欠的に放映されるTVという、映画とは正反対の異質なフォーマットを無理矢理乗せようとしたことに起因するのではないか?
メインの「副総監誘拐」というストーリーに対し、サブ的に配置されたいくつものエピソード(キョンキョンのサイコキラーや署内の窃盗&人質事件等々)は、かろうじてメインストーリーにリンクされているものの、ほとんど取ってつけたような関連づけしかなされていない。いや、メインのストーリーからは、ほとんど独立した話と言ってもいいだろう。つまりそれぞれのエピソードはTV1話分のプロットで、映画全体ではそれを羅列したような形式になっているのだ。
例えばTVであれば、サスペンス調の回やコメディ調の回、シリアスドラマの回など、全何話で構成されるシリーズ内にバラエティに富んだ内容を盛り込んでいくことは、手法としては十分に理由がある。そのような断片的なイメージを毎週見せられた「視聴者」は、その断片的なイメージの羅列から、独自に総合的なイメージを自分の中に作り上げていくのだから(例えばこの場合、TVシリーズを見ていた「視聴者」は、各自が各自好みの「踊る大捜査線」的なイメージを作り上げていることになる)。
ただし映画は、上でも書いたようにフィルムという一次元的なデータの支持体の上に、1本の線を紡いで行く、ということが重要なのだ。そして上映時間という限られた時間の中に紡いだ1本の線で、製作者がどのようなイメージを「観客」に提示するのか、というのが映画の持つ力ではないだろうか。その点で言えば、この劇場版『踊る大捜査線』はとりあえずメインの線はあるものの、その他は決して1本により合わされない断片的なイメージの羅列で「観客」に強烈な違和感を与える。
監督の本広氏や脚本の君塚氏ともTV出身で、まさに手持ちのスキルとしてTV的な手法しか持ち得ていなかったのだろう。普段やっていることをそのまま映画のフィールドに持ち込んだわけで、本人たちには自然なことだったのだと思う。
だが、1本の線を紡いでいく映画としては破綻していて、映画を見に来た「観客」にとっては非常に不満か出る内容になってしまった。 逆にTVの「踊る大捜査線」の延長を求めて劇場に来た「視聴者」には、まさに我が意を得たり、という内容になっていたはずだ。1本の線に統合されないイメージ、つまり断片的に羅列されたイメージで、「視聴者」が自分の中にある各自好みの「踊る大捜査線」的なイメージを作り上げる、または補強するには、最適な形式になっていたのだから。
つまり、映画の「観客」には受け入れがたくても、TVの「視聴者」には非常に良い内容だった、ということがこの劇場版『踊る大捜査線』が大ヒットしたポイントなのだ。この「大ヒット」という事実からは、今の時代、「誰」が「何」を求めているのかが、良く見えてくるのではないだろうか?
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