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[コメント] ダンサー・イン・ザ・ダーク(2000/英=独=米=オランダ=デンマーク)

彼女を美しい母の愛をもった人間、などと言うことは侮蔑に等しい。同じように、人を何らかの役割を与えることで美化することは、侮蔑行為を逸して、ほとんど殺人的行為にも似たものに、わたしには思えます。それともそれは言い過ぎというものでしょうか。
ふみ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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 「それをラスト・ソングにするのはわたしたちなのだ」というセルマの言葉は、少し前のわたしになら単なるレトリックのように感じられていたかもしれません。しかしそれも彼女までいけば立派な生そのものでしょう。

 セルマはミュージカルを見るとき、最後の歌になるのがとても嫌で、最後から2番目の歌が流れたところで外へ出てしまうことを思いついたのだ、とカトリーヌ・ドヌーブ演じるキャシーに言います。そうすれば、それは永遠に続くでしょう、と。

 これは人間がもち、かつ支えてきた強力な世界観に対するささやかな抵抗の一方策にわたしには思えます。もちろんそれがひとつの物語であるという意味では、対峙する強力な物語と同一の構造をもったものであることから逃れることはでき ないとしても。

 またこの言葉は、現在という永遠性について示唆しているようにも思います。刑の執行について、「悲しむことは何もない」と語るセルマの言葉は、ソクラテスを思わせます。むろん、死を従容として受け入れる、などというリアリティのなさはここではかけらもなく、セルマのからだはあくまで絞首台へ向かうことを拒みます。

 この話の結末をわたしは「悲劇的」だとは思いません。それはセルマがキャシーと再審の可能性についてやりあう場面でよくわかるように思います。セルマは息子の目こそが一番大切なのだ、と言い、一方のキャシーはあなたが生きていること、母親がいることこそが大切なのだと言います。

 確かにキャシーの主張は魅力的です。この話をハッピー・エンドで終わらせる力をもっています。もしもこの物語を、家族の絆と母親の愛を訴えかけるような道徳的なものであったならば、それが取られるべき最良の選択だったでしょう。でも、そんな話だったら、わたしは全然心をつかまれたような気がしなかったでしょう。

 セルマはあくまでも自分の命ではなく息子の目を、と主張します。わたしはそこに、彼女の主体的な生き様を見たいと思います。「母親という役割」を受動的に果たすけな気な存在でも、悲劇を一身に背負った存在でもなく、彼女は彼女自身のためにその生を生きたのだと思います。もし息子の目の手術をせず、自分が再審によって減刑され、数年後に出所したとして、そこにいったい何があるというのでしょう。目の見えない母と子が、ひとの慈悲にすがり、慰めあって生きていくことを、どうして望むことができるというのでしょう。当事者以外の者による、「可愛そうな人間」を作り出す、そうした同情装置に対して、彼女は断固とした異議を申し立てます。私はそんな生は嫌だ。私は最後から2番目の歌を聴きながら、この世界を退場したい。「お金をドブに捨てるようなものよ!」という彼女の言葉はそういうことなのです。誰にも私の生を横取りさせない。私は私の生をまっとうしたい。永遠の生を。だから「悲しいことは何もない」のです。

 もし「悲劇的」ということを言うのなら、わたしは彼女の選んだ死などよりも、もっとずっとそれに適したシーンを示すことができます。それは彼女がジェフ(理想的な男性だわ)に向かって、ミュージカル仕立てのメロディーに乗せて語られるセリフ「見るべきものはみんな見た」です。目が見えないのか、と聞くジェフに、セルマはそうこたえ、場面が一転空想シーンになってなにやら楽しげなのですが、わたしにはこらえようもなく悲しいものに感じられます。

 私はもう十分これこれのことをした、だからもういいのだ、という諦観くらいわたしの情念に訴えかけるものはありません。わたしにはその心情がとてもよくわかります。そうした諦念を抱えるほどに人生が軽くなってしまった者の気分は、生きていることの残酷さそのものだと言えます。そして、そうした世界に生きている者、すなわち生きるということそのものに価値を見出せなくなってしまった者にとって、世界を理解したり、秩序立てることはほとんど無意味です。彼女は自分の中にのみ絶対的な価値を見出し、それが決して社会との整合性を持たないことを自覚し、それを受け入れます。

 彼女を問い詰める検察官は言います。「あなたはこんな話を信じろという」 彼女は何ら説得力のある証言をすることができません(というよりしない)。おそらく同じように息子も母のことをずっと理解できないでしょう。一生理解しないかもしれません。しかし先にも述べたように、それは彼女にとって、どうでもいいことなのです。彼女はそんなこと、つまり自分がひとに理解されない、などということは恐れません。彼女が恐れているのは、彼女が彼女として生きることがかなわないのではないか、という一点であるように思われます。彼女は、最期の時に、うろたえず、それを受け入れられるようにと神に祈ったのではないだろうか、そんな風にわたしは思います。

 彼女がなぜ子どもを産んだのか、と問われてこたえる「子どもを抱きたかったから」は、文字通りとらえられるべきでしょう。彼女を美しい母の愛をもった人間、などと言うことは侮蔑に等しい。同じように、人を何らかの役割を与えることで美化することは、侮蔑行為を逸して、ほとんど殺人的行為にも似たものに、わたしには思えます。それともそれは言い過ぎというものでしょうか。

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