[コメント] 風花(2000/日)
相米慎二は空気=「間」を撮る。桜の花びら、ひらひら、と。川のせせらぎ、さらさら、と。そして、「キレイ」じゃないモノとの出会い。
「何もない時代の男と女の映画」(相米慎二・談)。
相米は、清涼飲料水のような透明性で、「何もない時代」の日常を、例によって魅惑的な長回しでたんたんと刻みつけていく(必要以上の感情の吐露や、テクニックを遊ぶだけ、小手先だけのカメラや編集は監督のエゴでしかない。だから、この何もない「透明さ」にいつまでも魅せられてしまう)。けれども、その「透明」であるということは、「キレイ」とは違うと思う。なぜって、日常の「透明さ」=何もなさを暴いてしまう長回しは、おそろしいほど退屈で、ゆるくて、時には「キレイ」じゃないものまで映してしまうものなのだから。そして思ってしまう、その退屈で「透明」な空気にいつまでも浸っていたい、と。
ひたすらゆるみ続ける空気の中で、ただ一人だけ、ささくれた存在感を放つ浅野忠信。その存在自体がノイズ=雑音になっていた。桜や雪山の自然の「キレイ」さ(あるいは小泉今日子の「キレイ」さ?)の中で、彼だけが「キレイ」じゃないモノだったように思えたのだ。『風花』の二人の男と女の人生に(あるいはぼくらの人生に)‘その後’があるのだとしたら、その「キレイ」じゃないモノとの出会いの連続に他ならないのではないだろうか?そして、たとえばその一つが、相米慎二の死だったとしたら・・・。
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