[コメント] ピアニスト(2001/仏=オーストリア)
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エリカの倒錯した欲望。あまりに冷淡な表面の顔とのギャップに、コチラとしてはさながら吐瀉物でも目撃してしまったような、抗いがたい生理的嫌悪感や気まずさを覚える。しかし本当に恐ろしい(というか、痛い)のは、経験を伴わない彼女の妄想に「現実」が介入する後半部。彼女の倒錯した願望も、所詮ファンタジーでしかないことを、あらためて思い知らされる。
倒錯した妄想が長い年月を経て確固たるものになってしまっただけに、彼女にとって「現実」はもはや異物以外の何ものでもなく、「現実」の能動的な介入は常に耐え難い痛みを伴う(トイレのシーンは「能動的な介入」ではないという点で、ファンタジーの延長と見た方が適切かと思われる)。その拒絶反応との戦いを通して、彼女の確かな実感への期待は完膚無きまでに打ち砕かれる。彼女が家でワルターに犯されるシーンで見せた、乾ききった痛みと絶望の入り交じった涙。壮絶としか言いようがない。
しかし彼女の強烈な存在の陰に回りながらも、これはワルターの物語としても見るべきものがある。彼女に心を寄せつつも、彼女を通して彼の性的な欲求は満たされない。そして彼女の嗜好にあからさまな嫌悪を示し心が冷め切ってしまったにも関わらず、寸止めをくらった彼の性的欲求は一人歩きを始めてしまう。彼の描いていた理想的な恋愛の裏に潜んでいた、キレイごとでは済まされない動物的な性的欲求が、彼女との接触を通して剥き出しにされ、白日の下に晒される。そしてラストで女の子を脇にして見せる屈託ない笑顔。自らの獣性をすでに目の当たりにしていることを考えると、その笑顔はもはや以前のそれとは違い、彼は「屈託ない笑顔」という仮面をつける術を身につけたと言えよう。(エリカに言わせると)ピアノ演奏に「曖昧さ」を見せるワルターが、ラストに至って自らの中に潜む獣性を理性で覆い隠すことで、「極端さ」を身につけたように思える。エリカという極端に終始するキャラクターよりも、むしろ個人的にはワルターに普遍的な人間像を見たような気がする。
ラストの解釈については、未だ消化不良気味。自己の存在に怒りを感じつつ、到底彼女は「現実の死」を自らの体に介入させることなどできずに、あのような中途半端な自虐行為にしか出られなかった、ということなのだろうか?
それにしても挑発的な映画。人物を克明に描き執拗な描写に徹しながらも、監督の解釈が伺える描写を一切絶つ。語る手前でブッツリ切り、映画の流れに任せる観客を放り出す。その後は個々で考えを巡らせざるを得ない。考えることを強要するという意味で、これは観客に対する明らかな挑発である。おかげで2.3日頭の中でグルグルしてしまいました(笑)。考えを固めるためにも再見したいような、やっぱりしたくないような・・・・。
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