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[コメント] キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(2002/米)

このレオナルド・ディカプリオが希代の詐欺師たりえたのは、他人(架空の人物)を演じる能力と小切手偽造の技術をともに類まれな高さで持っていたからだが、演出はその二点を明瞭に描き分けない。物語を体裁よく仕立てるには適当な方途だが、一四一分間も語られた物語に充足感を覚えないのもそのためだ。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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トム・ハンクスがディカプリオを執拗に追うのは、まずディカプリオが「小切手偽造犯」という通貨の信用さえも脅かす国家的に重大な犯罪者だからだ。ディカプリオが架空の人物に成り済まそうと、それ自体は何ら刑事罰の対象になるものではなく、またハンクスにとってもそれはディカプリオ逮捕を果たすために越えねばならない障害のひとつというにすぎない。

一方ディカプリオにとって小切手偽造はほとんど天から与えられた才能のようなものではあるものの、金銭を得るための一手段/技術でしかない。ディカプリオ当人にとって重大なのはむしろ、自身が他人を演じることでエイミー・アダムスをはじめとする人々と相互的な影響が生じるところの感情の展開だ。

したがって、ここにはねじれが生じている。映画はそれを解きほぐすように描くでもなく、また巧妙に隠蔽するでもない。どちらをするにしても多大な労力が要求されることを知っているスピルバーグはこの事態を意図的に放置してやり過ごす。それもひとつの正解には違いないが、やはり観客の中にわだかまりを残す。

この映画において感動的なのは、ディカプリオとハンクスの「等方向性」ではないか。ディカプリオは「逃げる」。ハンクスは「追う」。すなわち、敵対関係にある者たちが正反対の行動を取っているにもかかわらず、両者の視線・動線の方向は一致している。物語の深層構造の観点からハンクスをディカプリオの「父」と呼びうるのならば、さらにハンクスはディカプリオ自身でもあると云ってもよい。当然ディカプリオはハンクスでもある。だから(上述の「ねじれ」によってその構図は若干明瞭さを失っているのだが、それでも)私はラスト・シークェンスを支持したい。敵対関係を解消して同僚となったハンクスとディカプリオ。行動の点から云ってもふたりを見分けることはもうほとんどできない。映画は「双生児」がとりあえずのあるべき姿に収まるのを見守ったのち、静かにその幕を下ろすだろう。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (6 人)ゑぎ[*] 赤い戦車[*] アブサン 緑雨[*] chokobo[*] けにろん[*]

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