[コメント] 回路(2001/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
黒沢清監督自身は「永遠っていう観念こそが非常に恐ろしい」という言葉(パンフレット参考)を残しています。
人間は自分自身を把握しようとするときに、どうも「永遠」という観念を用いざるを得ないようです。古代から現代まで、それは変わらないでしょう。空間の無限、時間の無限について、すこし考えてみれば十分です。
この映画では、亮介と春江の会話で、「永遠の死」と「永遠の生」という言葉が用いられます。亮介は「永遠の生」を信じようとする。しかし亮介も、どうやらこういった観念では孤独から抜け出ることができないことを、すぐに悟ります。
ネット上にうつる消え入りそうな人間たち。かれらの姿は、生きている私たちが幽霊と全然かわらない、と春江に確信させます。永遠の死のなかの幽霊たちとおなじく、私たちも孤独なのだ、と。
インターネットや携帯電話が急激に拡がったいま、かえって私たちの「孤独」が明るみになったように感じる。なぜそこまでコミュニケーションの手段を欲しているのだろう。いま人前にいる自分は本当の自分でなくて、真の自分はネットのなかにいる、とでも考えているのだろうか?ここで真の自分とは、誰かと心を分かち合うことができる自分のことである。でもそういった自分がもてないなら、私たちは幽霊と同然なのかもしれない。春江のいうように。(しかしネットどころが電話もテレビもない昔のひとが今の人間以上に孤独だったように思われないのだ。)
携帯電話などで一緒に話をすること、一緒に住むことなどが、孤独をさける手段だとはとうてい思えない。たとえ目の前にいても、他者は変化しつづけるのだから。一人でいるときに心のなかにいる他者はもしかしたら妄想なのかもしれない。だけれども自分は自分として孤独でない、という確証が得られはしないか。そのあたりの解決が、どうもこの映画の最後で語られているようにおもいます。(「大いなる幻影」とも終結は似てますね)
麻生久美子さんの次のコメントはポイントをついているようにおもいます。(再度勝手につかわせていただきます。)
「例えば一人でいても、自分を必要としてくれている人は絶対にいると思うし、自分には親や友達がいるんだっていうことをみうしなわなければ大丈夫だと思うんですけどね」。
最後のシーンはたしかにハッピーエンドです。この終結は世界観の表現というより、必然的にみちびきだされる、帰結だと納得できました。皆さんはどうおもわれるでしょう?
いずれにせよ、この映画、心底から怖い映画でした。この怖さは真のサスペンスだとおもいます。文字通り、宙づりにされた自分自身を実感するこわさです。
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