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[コメント] 動くな、死ね、甦れ!(1989/露)

日常の延長としての活劇、現実の持続としての映画。エレジーとラプソディの同居する不思議な空間。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画の舞台となるシベリアの町スーチャンは、極東ウラジオストックにほど近い、うら寂れた炭坑と日本兵捕虜のための収容所のある最果ての地である。終戦後の暗い世相にじむこの酷寒の土地で、炭坑労働者のバラックに母親と一緒に住んでいる少年ワレルカの騒がしく滑稽な日常の風景が、この作品の主旋律となっている。蚤の市でのお茶売りのアルバイトを試みても、近所に住む少女ガーリヤに客を取られてうまく行かず、それでも何とか稼いだ小遣いで手に入れたスケートもあっけなく不良少年に奪われてしまったりする。悪戯に手を染めるようになり、家でも学校でも居場所を奪われ独りぼっちになっていく少年の、何かに不平があるのにそれを言明できない奇妙なもどかしさを湛えた表情。悪戯はだんだんとエスカレートしていき、ガーリヤへの好意の裏返しの嫌がらせ行為や悪ガキとのケンカを経て、学校のトイレにイースト菌をぶちまける悪質な悪戯が発覚したおりには、ついには学校からも放校されてしまい、その腹いせに引き起こした汽車の転覆事故のために警察にも追われる身となり、やっと見つけた居場所はウラジオストックの強盗団のアジト。やがて少年は盗みに手を染めるようになってゆく……。

悪戯を繰り返す少年の姿は、純真さや汚れのなさなどといった、ステロタイプな少年性のイメージにはもちろんとても収まりきるものではないし、かといって貧困と閉塞への鬱屈感からやみくもに反抗を繰り返す「恐るべき子供たち」のイメージに回収できるわけでもない。ここで描かれているのは、生きる意味を考える余裕もなくまたその必要を感じることもなく、ただ単に生きようとしている一人の人間の生身の姿だけだ。この光景は徹底して即物的であり、即物的ならではの生々しいむきだしの美しさがある。

ところで、少年が活躍する舞台としてフィルムに収められたスーチャンの町は、不思議な空間性をたたえている。まず目立つのは、貧困と酷寒のなかにも活きる人々の歌声と話し声と怒号による喧騒。それから、妊婦と子供のみが過酷な使役を免除されるこの町で生き抜くために、行きずりの兵士に子供を作ってくれと迫る女の、惨めにやせ細った寒々しい肉体や、収容所で働く日本兵捕虜たちが鼻歌を歌う姿などを、感傷を排した引きで写しとった映像の不思議に静かな叙情性。喧騒と静けさ、その一方はウォトカと歌を愛するロシアの陽気な民族性を称えるラプソディであり、他方は、最果ての地で人知れず過酷な運命を享受する人々たちの哀しみをうたったエレジーである。しかしこの映画においては、そのいずれかが突出してあるというわけではない。根底にあるのは、酷寒と貧困のなかで、それでもなお生きてある者たちの現実を、冷たくも暖かくもない眼差しでただ淡々と写しとらんとするこの監督のラディカルなまでに唯物的な感性である。その感性は、互いに相反しあうはずの喧騒のラプソディと静けさのエレジーを、同時に包含しうる奇妙な「深さ」をたたえている。

であればこそ、少年のとどまるところを知らず荒唐無稽さを増していく悪戯の数々も、日常のなかに不意に突出した非日常的なものとしてではなく、あるいは世界の不条理に鬱屈した感情のほとばしりとしてでもなく、あくまでも日常と地続きにある活劇として、いきいきとした輝きを放つことになるのだ。少年のただ生きようと欲するむきだしの生が、エレジーとラプソディの同居する不思議な空間のなかで、いつしか活劇としての様相を帯びはじめる……。この荒唐無稽ぶり、そこには、虚構のリアリティがあり、またリアルな虚構性がある。つまりそれは映画そのものだ。

当初、カネフスキー監督は本作品を『守護天使』というタイトルにしようと考えていたという。奪われた少年のスケートを取り返しに行くとき、あるいは少年が強盗団に利用されそうになったとき、少年が危機に陥ったときにいつも不意にあらわれ、少年を正しく導いてくれる少女ガーリヤへの敬慕の念をこめてのものなのだろう。たとえば、女性の神秘性を称えるという行為は、自らを社会的な存在と信じて疑わない「男」が一方的に「女」を自然的なものとみなすような、裏返しの男根主義(オリエンタリズム)によるものであるとよくいわれる。オリエンタリズムは、いつも「男」のナルシスティックな自己意識から生まれるものである、と。しかし、作品の結末近く、少女への恋情を綴った詩を口ずさむ少年のカットと、それを幸福そうな笑顔で聞く少女のカットの交錯する、あの瑞々しさほとばしる線路の上のシーンにおける少女の眼差しには、あるいはその眼差しへの憧憬を隠さないキャメラには、決して意識の産物とは思えない、モノとしての《母性》が、その物質性そのままにまざまざと映りこんではいなかっただろうか。だからこそ、その物質性が意識に回収されるより前に、少女はあっけなく殺されてしまわなければならなかったのだ。そうして守護天使を失った少年は、エレジーもラプソディもないザラリとした「現実」を『ひとりで生きる』ことになるだろう。だから、現実の持続としての、これは映画なのだ。

(評価:★5)

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