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[コメント] 害虫(2002/日)

出来てない事がカッコいいなんて事はあり得ない
ペンクロフ

以下に記すのはこの映画を観て感じた個人的感想と、改めて再認識した鑑賞者としての自分の立場のことであって、必ずしもこの映画の批評に限らぬことばかり偉そうに書いています。不快にさせたらすみません。どうか平に御容赦を。

説明すればダサくなる、喋らせすぎれば底が割れる、描きこめば普遍性を失う。そうやってダサさをよけてよけて避けて避けて消去法で作られた映画を観るのに、もうオレはいいかげんウンザリしているんだ。オレは落とし穴に落ちてないだけで全然飛べてない映画を観て「落とし穴に落ちてない! ダサくない! だからいい!」なんて全然思わないんだ。落とし穴に落ちたっていいんだ。落ちなくてもいいんだ。そんなことはどっちでもいいんだ。飛べばいいんだ、或いは落ちればいいんだ。

こういう映画の作り手は、一から説明しない、台詞で語らないのはこの作品のスタイルですよ狙いですよあえてやってるんですよと皆さん口を揃えてそうおっしゃるんだ。オレはもうそんな言い訳は聞いてられないんだ。だってそれがスタイルで狙いでしかもちゃんと成功している映画なんか、メチャクチャ少ないではないか。たいていの場合は、作り手が説明することで生じるダサさを病的に恐れているだけなんだ。怖がっているだけなんだ。そんなビビり映画なんか観たくないのだ。それって、ただ出来てないだけだ。そして、何かが出来てない事がカッコいいなんて事はあり得ないんだ、少なくともオレにとっては。

りょうが男のライター借りて置いて男がそのライターをタバコの上に置きなおす。そりゃそれ自体はなかなか繊細な心理描写なのかもしれんが、あんなアップでライター置きなおしを撮ったらそれは誰の目にも一目瞭然だろう。アーッ、ここダサくなってますよとオレは思った。台詞のやり取りによるダサさを回避して芝居で表現しようとして、しめしめとばかりに先生これ見よがしにドアップで撮っちゃってるのだ。なんてダサいんだ。ダサさを回避したつもりで、別のダサさに思いっきり落っこちているのだ。オレはこんな作り手の右往左往にもウンザリしているんだ。

こういうダサい撮りかたはすまい、ああいうダサい台詞は言わせまい、そういうダサい話の展開はすまい。消去法で出来上がった作品はいつもひどく貧しい。貧しすぎて何もない。いらないものを消去していけば、自分の描きたいものが確固として残っているに違いないというのは幻想だ。最初からないものは、最後にだって残りゃしない。いったいいつまでヌーベルバーグなんて大昔の夢を見てるんだ。いつになったら逃げ回るのをやめて、もしかしたらダサいかもしれない自分の物語をそれでも承知で世に問うんだ。もう気づかなければならない。もういいかげん気づかなければならない。何をどう描かなかったかではなく、何をどう描いたかでしかオレは映画を評価したくない。

いや、実際はこの映画、それほどダメな映画ではない。悪くない場面もたくさんあったし、もっとダメな映画は世にいくらでもある。上記の罵詈雑言の全てがあてはまる映画も存在する。ただオレは、宮崎あおいを観てニヤニヤできればなんでもいいやと思い限りなくハードルを下げて観た映画でこんな目に遭ったから激昂しているにすぎない。しかしオレは真剣に思う、この映画の宮崎あおいのふくらはぎで喜んでいてはダメなんだ。そんなもん人類なら誰でも喜ぶに決まっているのであって、誰でも喜ぶに決まっているものを見せてそれで褒められようなんて貴様どこまで図々しい映画なんだと壁際まで詰め寄るべきなのだ。そこはもうビッシビシ行くべきなのだ。例えばオレが大嫌いな映画監督に大林宣彦がいるのだが、彼に対してこの種の苛立ちは一切感じないのだ。あれは描きたいことを描き叫びたいことをシャウトするダサくて立派な映画監督であって、ただその描いているものがオレから見て気持ち悪いので大嫌いというだけの話なのだ。それでも彼はフンドシ一丁で闘いの土俵に上がり、観客に作品を差し出して勝負してきた。こういう人は、嫌うにしても嫌い甲斐があるのだ。この映画にはその嫌い甲斐さえなかった。

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (11 人)mal ミキ Lunch moot 浅草12階の幽霊[*] ぽんしゅう[*] Kavalier OK くたー[*] トシ[*]

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