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[コメント] リリイ・シュシュのすべて(2001/日)

「リリイ・シュシュなんていない。」(レビュー全面改訂2002.12.8、ネタバレ注意、レビューは冒頭からラストに言及)
グラント・リー・バッファロー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







『打ち上げ花火…』でもそうだったが、岩井俊二はラストを明確に決めずに撮ることが多いようだ。クライマックスにあたるコンサート会場のシーン、実際のシーンでは蓮見と星野はお互いのネット上での存在に前から気づいているのかいないのか曖昧であったが、当初は星野が「じゃあな、フィリアさん」と言ってコンサート会場に入っていく台本が用意されていたという。何故、話の根幹に関わるところが台本と変わってしまっているのか、初めは甚だ疑問であったが、彼らが気づいたそぶりを見せるか見せないかは、実はそれほど重要ではなかったのではないかと思うに至った。

ネット上で交わされる沖縄の記憶、お互いの言葉がお互いに染みていく。どこまで自覚していたかはわからないが、すでにこのとき蓮見と星野はお互いが「フィリア」であり「青猫」であることをそれとなく気づいていたのではないか。とすれば、コンサート会場で暴き出された出来事は、唐突に訪れたものではなく、すでに彼らにとっていつか起こりうるとの予感をはらんでいた。

星野が造りあげた暴力的な秩序の構図。星野には過去のコンプレックスや沖縄での生死の世界が根づいていて、いつしか破壊することの美しさに魅せられていた。彼は自分も破壊する一方、「下」の者に破壊することを命じ、それを観ることで自分の何かを破壊していった。破壊の秩序。彼らにはそれはいつまでも続く現実のように思えた。

さて、蓮見にとってこの秩序は常に「逃れるべき存在」であっただろうか。私には必ずしもそうであるようには見えなかった。援助交際やレイプの手引きをする彼は、秩序のなかに一定の居場所を見出していた。例えば喫茶店での蓮見と津田の様子、彼らはそこから逃げようとは考えず、その秩序のなかでいかにやっていくべきであるかを考えていた。二人の淡い関係も破壊の秩序のなかでこそ成立しうるもの。金を上納し、ポンびきのような行動をおこない、万引きをして、また金を上納し、ファンサイトを運営し、リリイ・シュシュを聴く。それが彼にとっての日常、彼にとっての居場所であった。

蓮見がその秩序に疑問を持ち始めたのは、丸坊主になった久野の姿を目にし、数少ない「同志」であった津田を失ったとき(ようやくそのあたりで疑問を持ち始めた、とも言えるかもしれない)であったと思う。破壊の秩序が現実に、生と死しかない世界に食い込んできたとき、彼は嘔吐する。それは、生と死が隣り合わせの世界をむしろ望んでいった星野の反応とは実に対照的である。蓮見はこのときはじめて助けを求める。(それまでは必ずしもネットの世界は、現実からの逃避を求める対象とイコール関係ではなかった。)

あのとき、コンサート会場で蓮見が発見したものは何であったのか。確かに星野が「青猫」であることを明確に意識したのは、このときだったのかもしれない。ただ、それ以上に彼がこのとき気づいたのは、星野がリリイ・シュシュをまだ聴いていたこと(もちろんそれは星野が「青猫」であるゆえだが…)。星野の造りあげた破壊の秩序。リリイ・シュシュはその秩序からの逃避の対象なのではなく、むしろリリイ・シュシュが存在することこそが今までの星野の意識を支え、ひいては破壊の秩序や、多くの悲劇を生み出していった。破壊の秩序とリリイ・シュシュは表裏一体のもの。そして蓮見は発見した。

「リリイ・シュシュなんていない。」

蓮見は群集に向かって言う、リリイ・シュシュがいるぞ、と。リリイ・シュシュなんていないとわかっているからこそ、醒めてしまったからこそ、言える嘘。その嘘を信じ、蓮見のいる場所に向かう星野、彼の中には確かにリリイ・シュシュは存在していた。そして、彼はリリイ・シュシュとともに葬り去られる、西表の青い海と死んだ旅人の幻影と生と死のイメージを抱いたまま。

* * * *

その後、あの秩序なんてまるでなかったかのように、何も起こらぬ日常が始まる。帽子をかぶったまま黙ってピアノを弾き続ける久野の姿だけが、あの悲劇が現実であったことをなまなましく日常に刻みこんでいる。すべてを葬り去った蓮見は、これからいかに生きていくべきか。取り巻きやスタンスなどが(一見)異なるため、青山真治とは比較もされないが、これは岩井俊二にとっての『Helpless』だったのではないか。

こんな中学生はいない、ネットを貧弱な自意識の発露としてしか登場させていない、手ぶれ映像での安易な「リアル」の表現、いじめの方途が安直すぎる、救いがない、いろいろ批判は成立するのだろうが、私にとって唯一不満だったのは、蓮見が星野を殺すことでしかリリイ・シュシュと破壊の秩序から離れることができなかったことである。それは、すべてから醒めた後、残されたものが相手を殺さないこと、他をいたわるヒューマンな感情であってほしいと思う私の願望の裏返しでもあるのだが、このような形でしか話を清算できなかった蓮見の弱さ、岩井俊二の弱さを残念に感じた。

とはいえ、蓮見(や岩井)を批判できるほど、いわゆるオトナの人たちは虚無を生き抜いてきたのであろうか。少年や少女たちに、リリイ・シュシュや破壊の秩序から醒めよ、と説得できるだけの倫理を確立させているのだろうか。蓮見はまた、どこかで別の「リリイ・シュシュ」に出会い、またそこで絶望し、また虚無をさまようのかもしれない。「リリイ・シュシュなんていない」、それを自覚することがいかに大変か、自覚できたとしてもその後の虚無を生きることがいかに辛いものであるか、そう問いかけられたような気がしたからこそ、あれだけ胸が締めつけられた心地がしたのだと思う。「リリイ・シュシュなんていない」、あなたは自信をもって、そう言えますか?(私には今は言えない。)(★4.5)

*前のレビューでは甘っちょろいと思い、もっと「甘っちょろい」レビューに書き換えました。投票いただいておきながら申しわけありませんでした。小林武史がらみの音楽にカリスマ性をもたせることには無理があった、との見解は変わっておりません。

*評価にはさほど影響しないが、本作で描かれたいじめは、実はさほど怖くない。いじめの怖さは、相手が顔の見えない群集であること、実体がないことに起因すると個人的には思う。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (14 人)Ikkyū 煽尼采[*] きわ[*] ぽんしゅう[*] ミュージカラー★梨音令嬢[*] まりな[*] 新人王赤星[*] sawa:38[*] JKF crossage[*] 秦野さくら[*] [*] 蒼井ゆう21 Kavalier

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