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[コメント] カンフーハッスル(2004/中国=香港)

 『如来神掌』序章。 60年代。 映画。
にくじゃが

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 このレビューは二部構成でお送りします。たいへん長くなります。おつきあい下さる方ありがとう。

 第一部:うんちく篇 如来神掌と香港映画史

 如来神掌とは、はるか昔、如来天尊が古漢魂に伝授した秘技である。古漢魂はその力でもって江湖に君臨し、“火雲邪神”と恐れられるにいたるが、陰謀渦巻く世に嫌気がさし、隠遁。如来神掌の秘技は失われたかに思えた。数十年後、龍剣飛という青年が現れる…。

 これが、本家『如来神掌』の話である。だが、本家はおろかリメイク作品さえ輸入されず、パロディである『サンダーボルト 如来神掌』のみがビデオで出ている日本で、いったいどれほどの人がこの技を知っているというのか! かく言うわたくしも本家は未見。本家は1964年制作で続編含めて第一集〜第五集まである大長編らしい。

 本作『カンフーハッスル』は舞台が文革直前、つまり1960年前後である。香港映画史では、1950年代の關徳興の元祖黄飛鴻もの・達人によるリアルカンフーの時代から、1966年のキン・フーの『大酔侠』をきっかけとして“新派武侠”が一大ブームを巻き起こすまでの間にある。その間どんな映画があったのかというと、黄梅調と呼ばれるミュージカルやメロドラマ、そして“新派でない”武侠映画である。新派武侠はどの辺が新しく、どの辺が違うのか? 

 戦後、リアルカンフーがもてはやされた理由は、それらが今までのものたちと違う“本物”の気迫を持っていたからに他ならない。さらに黄飛鴻の映画を同じ洪家拳の達人である關徳興が演じるといったリアリズムを追求していた事による。新派武侠はこのリアリズムという流れを汲みながら、京劇の美しい殺陣を取り入れたものである。見た目は軽やかながらも、そこに漂うのは緊張感。手に持つものは凶器であり、一閃すれば血が流れる。(『大酔侠』を御覧になった方、金燕子が襲われ髪を振り乱していく様、覗きをしていた子どもの目に針が突き刺される様、あれですよ。)

 キン・フーによって生み出されたこの流れは、より残虐描写を克明に描いたチャン・ツェーなども現れ、新派武侠というブームを生むに至る。この暴力・残酷路線は香港映画に限ったことではなく、『座頭市』もの・石井輝男もの・マカロニウェスタンなどの世界的なブームのもとにあったものである。そして1970年代、ジミーさんの暴力映画(あえてカンフーとは言わない)『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』を見たアメリカ帰りのある男が「本物の蹴りを見せてやる!」と言い放った。猛龍革命がここから始まる。リアルカンフー再び。

 リアリズムとリアリズムの間にあるもの、それはファンタジーである。『梁山伯と祝英台』(1964年)のような、『西遊記』シリーズ(1965年)のような。リアルな人物のリアルな殺陣よりも、特撮や曲芸によって表現された超人達の伝説が主流の時代である。『大酔侠』はまったく新しい映画といっても、まだその辺の描写が残っている。酔猫が手から何か出していたのを思い出して欲しい。あんな感じなのである。(そういう意味では真の“新派武侠”は翌年の『残酷ドラゴン 血斗!竜門の宿』やチャン・ツェーの『獨臂刀』あたりから始まるとも言える。)本家『如来神掌』はそんな時代の手から何か出す映画なのだ。

 第二部:比較そして感想篇 だからどうなんだ

 チャウ・シンチーは常日頃よりブルース・リーファンということを公言し続けている人である。そのことを彼の映画のそこかしこにちょろっと出すとてもお茶目な人である。彼はリアルカンフーの申し子ブルース・リーを愛しているけれども、だからといって彼は決してそれ以前の映画たちを蔑ろにはしない。彼のフィルムキャリアの中の『マッドモンク 魔界ドラゴンファイター』や『チャイニーズ・オデッセイ』シリーズなどの武侠片は60年代の“新派でない”ファンタジックな武侠映画をそのまま受け継いだものである。そして前作『少林サッカー』。あの傑作はサッカーという現代的な舞台、スポーツという力・才能がものを言う世界における、一人の超人の活躍を描いた武侠映画であった。(「サッカーは格闘技なんだよ!」という台詞が象徴的。)武侠映画を現代に甦らせ、且つ自分の色を付けることができる、そして面白い。あの作品は、まさにチャウ・シンチーの天才が炸裂した作品であった。

 さてさて、『カンフーハッスル』である。この映画には豚小屋にひしめく市井の人々がいて、その中には達人が隠れて生活している。人々の生活の描写は恐ろしく写実的でありながら、達人達の技にはふんだんにCGやワイヤーが使用されている。顔のあくの強さも格別だ。彼らはふつうの人間とは違う、超人達であるということが見てすぐに判る。彼らに対峙するは“斧頭幇”、斧を使うという特徴を持った一大門派である。そう、あそこは力こそが全てを支配する世界、“江湖”そのものなのだ! と、ここまでは『少林サッカー』と同じ流れである。では『少林サッカー』とどう違うのか。それは落としどころである。

 前作ではサッカーというメジャーなスポーツが、“マイノリティの夢”であるカンフーを、現代、そしてワールドカップ開催直前であるという現実とリンクさせた。それでは本作ではどうなっているのか? 

 本作『カンフーハッスル』では終盤、シンは空高く舞い上がり(ちゃんと鳥の助けを借りている所がニクい!)、如来像から如来神掌の秘技を授けられ、それを火雲邪神に伝えた。このレビュー冒頭の『如来神掌』あらすじで “如来神掌とは、如来天尊が火雲邪神・古漢魂に伝授した秘技”と述べた。そしてしつこいようだが舞台は1960年代である。映画の『如来神掌』が作られる直前なのである。つまり、本作では“マイノリティの夢”である如来神掌(そしてカンフー)は、60年代という現実世界と、“私たちの見続ける夢”、映画の世界とをリンクさせたのだ!

(映画への、カンフー映画への愛はブルース・リャンユン・ワーフォン・ハクオンなんかを出してくるあたりでもうまるわかりなのである。ブルース・リャンが登場した時は、あんなに太っちゃって!と思ったが、あの目つき・あの足さばきで歓喜! フォン・ハクオンは非常に“らしい”役どころだったな…)

 この作品はあの傑作の後だからこそ撮れたのだ。「サッカーなんてもうやんねえよ!」チャウ・シンチーは進化している。自分の力を信じている。カンフーの力を信じる心、映画への愛。その志の強さには圧倒されるね。今後の作品が、本当に、とても楽しみだ。

 でも、わかりやすさという点で『少林サッカー』に軍配を揚げる。それと最後の少女との愛もやや強引だな。

(評価:★4)

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