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[コメント] フルメタル・ジャケット(1987/米=英)

それが明らかになる前と、なった後とでの、それを見ているわたし自身の意識の変化。
ふみ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 夜中にテレビをつけると、一見してそれとわかる「ベトナム戦争映画」をやっていたので、早く寝なきゃなぁと思いながらも見てしまいました。映像の静謐な美しさに引かれたのですが、途中の印象的なワンショット――地面にふせていた黒人兵士が目をむき、声にならない声を発しているシーン(実はスナイパーに再度撃たれた瞬間だったのですね)――からそれがスタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』(1987)であることに気づきました。

 わたしは映画、好きなんですが、あんまり見る機会がなくて。この映画も前々から見たいなぁとは思っていたんですが、こんなかたちで、しかも半分だけ見ることになろうとは…。

 上でふれた印象的なワンシーンは、これまたわたしが気まぐれで買った雑誌『カイエ・シネマ・ジャポン』(NO.28,1999)の特集「戦争・映画・オーディオヴィジュアル」の中で取り上げられていたキューブリック映画の資料として、わたしの目に焼きついてしまったものでした。特集では何人かの論者がそれぞれ戦争と映画について寄稿しているのですが、そのうちのいくつかがこの『フルメタル・ジャケット』と、テレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』(1998)あるいはバーホーベン『スターシップ・トルーパーズ』とを比較して論じているのが印象的でした(というより、見たことのある映画だからわかりやすかっただけですが)。

 キューブリック監督は、このベトナム映画を撮影するのに、テムズ川のほとりにある廃墟と化していたガス会社の発電所を使用。その際、ロンドン市当局から「破壊許可証」をもらったとか。「破壊許可証」と題されたインタビュー記事(雑誌『ローリング・ストーン誌』1987より抜粋)で、ポール・ヴィリリオ氏は、この映画についての次のように語っています。

「『私は作品のナラティヴな構造を粉々にしたかったのです』とキューブリックは「ニューズ・ウィーク」で語っているが、それはほとんど実現されていない…。何しろこの作品にはそれしかないのだ! 分裂し、ばらばらになっているのは、作品そのものである。よって、ここで重要なのは、もはや各シーン、演出、俳優ではなく、その間隙、ゲーム、それぞれのものを隔てる狂気めいた隙間である。(中略)ふたつのヴィジョン、ふたつの道徳観のへだたりこそが本質的なものである。それは、ステレオにおいて、離れたスピーカーの距離がリアルさや音の信頼感を感じさせるのと少し似ている」

 わたしには「ふたつの道徳観のへだたりこそが本質的なもの」というあたり、すごくぞくぞくきてしまいます。

 また、「映像とは戦場においてリアルな身体(そしてその死)を無限に遠ざけるためにある」と語る橋本一径氏は、これまた上でふれた黒人兵が狙撃されるシーン、どこから撃ってくるのかわからないあのスナイパーの正体が、実はベトナム人女性兵士だったという「事実」について、それが「文明/未開の二分法」に足をとられた「いささか陳腐な発想」であり、キューブリックの限界であると指摘しながら、『シン・レッド・ライン』でテレンス・マリックも同じ轍を踏んでしまっていると述べています。

「重要なのは、米軍兵士たちの内面には自由に入り込み、その記憶までも映し出して見せるキャメラが、日本兵の内側には、決して入り込むことがないということである。日本兵の内面は、映像の届かぬ彼方にある。キャメラは日本兵を、あたかも戦闘機のモニターのように、攻撃対象としてしか捉えることはない」

 こうした批評が力強く説得的である一方、でも何かそんな風に道徳的に語られてもなぁと思えるのは、それこそが「二分法」にとらわれているからではないのかなと思えてしまいます。だって、敵味方双方の視点から平等に撮影された戦争映画なんて、「解説」以上の何だというのでしょう。それも絶対にありえない、理想化された解説記事。それこそうさんくさいとわたしには思えるのですが。

 だからわたしは荻野洋一氏がバーホーベンの『スターシップ・トルーパーズ』(個人的にはあのハインラインの名作をよくもこんなモノに〜!と怒りふんぷんですが)を、「自作自演の皮肉」「『戦争昂揚映画』ではなく、『戦意昂揚』または『対敵憎悪』についての映画」ととらえるような視点にこそ、独善的かつ偽善でないさわやかさを感じます。

 監督の手腕の見事さに惑わされ、「二分法」とか現実を見すえていない的な批判を浴びせて満足してしまうは、監督の意図が露骨に見えてしまうようなものの方を評価してしまうというのと同じくらい簡単なことのように思えます。

 わたしは、語られないものこそに興味をもちます。『フルメタル…』のベトナム女性スナイパーや、『シン・レッド…』の丘の上の日本兵(そして、かなりがんばれば『スターシップ…』の虫たちにも)。

 実は決して屈しそうにない屈強な敵に見えた彼らは、廃墟にたった一人でひそむ孤独な女性であったり、最悪の環境に立てこもり、やせこけ、嘆き悲しむ自分たちと同じ兵士だったり。

 それが明らかになる前と、なった後とでの、それを見ているわたし自身の意識の変化に、わたしはとても興味をもちます。見えない裏側が明らかになる瞬間。しかし裏側が裏側たりえるのは、表があるからなのです。

 見えない裏側、語ることのできないことがらを描くために、見える表を、語ることのできることがらをたんねんに描いていくこと。それこそが、これらの仕事の意味、少なくともわたしにとっての意味です。そしてそのきわまったわずかな瞬間にいたって、わたしは女性兵士に同化し、日本兵になりかわることができるのです。

(評価:★5)

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