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[コメント] 海底軍艦(1963/日)

戦争に行った世代だからこそ、娯楽に徹することが出来た強み。
kiona

 この十年後に横井正一さんが帰って来るのだが、その先取りとも言えるような、“終わっていなかった太平洋戦争”というテーマを孕んだ田崎潤演じる神宮寺大佐には、思わず敬礼しそうになった。もっともこれは、後世になってからの見方であり、現実における“恥ずかしながら…”の声に込められていたであろう様々な感情に匹敵するものが、本作品にあったというわけではない。そんな現実問題への呼応を期待するのはお門違いであるし、そういうテーマに関する神宮寺大佐の葛藤をもっと深く観たかったというのも、理不尽で我儘な感想だでしかない。けれども前半部分がこういったテーマを想起させるための、少なくとも可能性を持っていたのは確かなのだ。こういう現実の問題とつい絡めたくなるようなネタが本多作品には多い。

 これも何で読んだのか忘れてしまったが(確か『秘宝』という映画雑誌の『W13パトレイバー』の監督インタビューでインタビュアーが言っていたものだった気がする)、本多猪四郎監督は「現実の部隊には田崎潤のような指揮官はいない。実戦では、部下が様々な策を出しやすいように、指揮官は緊張感をなるべく強いないようにするものだ」と語っていたそうだ。想像するまでもなく、往年の特撮は、その考証において、多くがでたらめである。ただ、重要なのは、作る側がそのことを重々承知した上でやっていたということだ。

 たとえば多くのラストシーンで怪獣が海に逃げて行く際、自衛隊はそれを目で確認しただけで撤収を始めてしまうが、こんな風にあっさり警戒を解いてしまうことは絶対にありえない。でも映画として物語りの終わりを演出するなら、あっさり警戒を解いてしまう方が後味が良い。後味が良いだけではなく『ラドン』のラストのような、ペーソスのようなものを醸すことだってある。

 先ほどちょっと出した『W13パトレイバー』もそうだったが、最近の映画は、特に一部のアニメは考証に力を入れ過ぎ、リアリズムが娯楽を圧殺してしまっている側面があるように思う。もちろん娯楽的要素が削られてもリアリズムを追求してくれた方が良いというのが今の風潮であるからなのだけれども…ただ、今の作家がやっきになって考証ばかりを突き詰めるのは、世のニーズに従ってのことであると同時に、どこまで行っても実体験がない、戦争を知らないというコンプレックスがあるような気がする。

 たとえば今の戦争映画で優れた考証を見せて貰った時に感じる“おぉ!”というのは、実体験世代にとっては当たり前の現実であったりするわけで、当たり前のことを映画にすることに何の必然性も感じていなかったのではないか。言われるにも及ばぬ実体験だったからこそ、映画では娯楽に徹するために、臆面も無い歪曲が出来たのではないか。誤解を恐れずに言うならば、記録映画でもない限り、娯楽映画にあって、考証への過剰な欲求は無知に対するコンプレックスでしかないのではないかということだ。もちろんコンプレックスがいい方に向かうことだって多い。黒澤映画の考証の深さを非難する人はいない。ただ、黒澤映画が評価されるのは、娯楽が考証に埋没しない限りにあってだというのを忘れるわけにはいかない。あるいは黒澤映画にも娯楽を考証に優先させているシーンは多々ある。

 現実を知る世代が造る虚構、虚構しか知らない世代が追求する現実。

 自分が後者の世代である限り、後者の苦悩は察するに余りあるし、後者が前者を凌駕する可能性を信じたい。しかし…

 度々引用している土屋嘉男統制官のお書きになった『おーい、黒澤さーん』に、黒澤明本多猪四郎に関する言及が載っていた。本多映画に必ず出てくる、警察官が笛を吹いて避難民を誘導しているシーンは、どう考えてもおかしい。ゴジラが来たらオマワリだって真っ先に逃げるに決まっている、と指摘しながら、しかし、盟友黒澤はこう付け加えている。「あれが本多猪四郎の良心なのだ」と。

 未体験世代による頭痛がするほどの考証が、自衛隊発足年に防衛隊を描いた同時代的感覚の余裕を覆せるのは、まだ先のことであるように思う。

(評価:★3)

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