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[コメント] 春夏秋冬そして春(2003/独=韓国)

キリスト者、キム・ギドクの描く仏僧の一生は、やはり彼なりのスタンスから産み出される哲学に貫かれている。小坊主に背負わされた「原罪」は、その後彼が重ねてゆく行動への道標となり、それに対する老僧の「許し」は仏の慈悲であると同時に、イエスの許しとも繋がる。
水那岐

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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「人生庵」は名のとおりシンボリックな場所である。俗世から隔絶されたそこには、暮らす者を罪へと追いやる現実世界の汚濁がつねに忍び寄り、彼を誘惑する。

物語自体も寓話的な性格を帯びているから、無垢な小坊主は姦淫の戒めを破り、外界に於いては殺生戒すら破って、寺を飛び出した時からは想像もつかぬような悪人となって帰ってくる。彼がおのれの半生を悔いてか自裁しようとするのを棒で打ち据えてまでも止める老僧は、あとで自らの身体に火を放つ。

このあたりは東アジア的な道徳観だが、ギドクは決してこれを「見下げながら」撮ったのではあるまい。ギドクもまた東アジア的潔さを肯定するものなのだろう(だが、それが物語を現代劇とは感じさせない、寓話的テイストに染めているのも事実なのだが)。

ギドク自ら演じる壮年期の主人公は、救うことのできなかった覆面の女(彼女を生きていた主人公の初恋の相手、と見るのは読み込みすぎだろうか)に詫びるためか、弥勒菩薩像を取り(これは寺を出た少年期の主人公が、阿弥陀如来像を奪っていくのと好対照だ。阿弥陀如来は過去を表し、弥勒菩薩は未来を表す)、自ら幼い日の魚、蛇、蛙にした仕打ちのようにおのれの腰に大石を括りつけ、寺を見下ろす山頂に登りつめて像をそこに安置する。それは幼い日よりの総ての罪への贖罪にも繋がるのだろう。

主人公は女の連れ子を育て、自分と同じ閉鎖された空間の住人としての小坊主と成す。これは輪廻の物語だろうか。幼い小坊主は育ての親と同じ人生を辿るかもしれない。そして人生の車は廻り、罪と許しの物語は続いてゆくのだろう。

(評価:★5)

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