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[コメント] レスラー(2008/米=仏)

熱い男の信頼をドカンとぶつけてくる映画。
シーチキン

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







クライマックスの試合のシーンは最初のマイクパフォーマンスから始まって、そのすべてが激しく心をゆさぶる。それは、ただただ一途に歩んできた人生を、一切の虚飾を排しさらけ出し、見る者に対しストレートにぶつけてくる。熱い男の信頼をドカンとぶつけてくるからではないだろか。

この映画は、ランディがどういう生き方をしているのか、終始一貫してぶれずに描いている。場末のドサ回りのリングであっても、そこに出てくるレスラーたちの思いは唯一つ、「盛り上げてやろうぜ」、この一点をそれこそ純粋に貫いている。

「観客を俺たちが盛り上げてやろうぜ」、このことを誇りにもし、やりがいにもし、だからこそ、トレーニングに励み薬をつかってでも筋骨隆々の肉体をつくり、日焼けサロンで見ばえを良くし、リングで使う小道具を自ら選び、リングに上がる前には腋の手入れも怠らない。

それは、観客の望む姿を演じるのではない。観客の望む姿こそ自分の真の姿なのでありそのためにこそ自分は生きているのだと、改めて自分に思い知らせているようでもある。

実際、リングを離れたランディの姿はどうだ。家賃をためてトレーラーハウスからさえ締め出され、車中泊を余儀なくされたり、家族をかえりみることなく気ままに過ごし、ようやく娘に素直に頭を下げて絆を取り戻しかけた、その直後にきれいな姉ちゃんに誘われて二日酔いだか何だかでつぶれて寝過ごしせっかくの約束をすっぽかし、前よりも手ひどく信頼を失う。惚れた女には今一歩のところでかわされ、ついにはこれからの仕事だと決めたスーパーではやけになって客や品物に八つ当たりして飛び出していく。

こんな人間とは実生活では誰だって付き合いたくないような、そんな男じゃないか。

そのランディが、いったんリングにあがれば、熱い信頼をぶつけてくる。「俺にやめろという資格があるのはファンだけだ。」おお、そうだろそうだろ、「お前が俺たちを盛り上げてくれるからお前を見に来ているんだ」。

だがランディはそれだけでは止まらない。「ファンは俺の家族だ」、この言葉こそ、この映画のすべてではないだろうか。すべてはこの台詞のためにあるといっても過言ではない。

たとえボロボロの暮らしをして、無理に無理を重ねてリングに上がってきても、それは「家族のためなんだ」。そうか、おおそうか、そうだったのか。「お前はそこまで俺たちを思ってくれているのか」、この熱い信頼こそが胸を揺るがし涙をこみ上げさせる。

それはランディだけではない。相手役レスラーさえ、「よく言った」と称え、そして開始ゴングの前に後ろからいきなりどつくという最大限の誠意でもってそれに応える。試合中から様子がおかしくなったランディを気遣い「後は俺に任せろ」といいながらどつく。

だがランディは観客の声援を、さらに大きくするために、試合を続け、たとえゆっくりであろうともコーナーの上に仁王立ちし、さらに自分の姿を誇示し続け、ファンに尽くして尽くして、尽くした挙句にダイブする。

それで十分じゃないか。この熱い信頼を俺たちにささげてくれた男がいた。それ以上何がいるというのか。

たとえ愚かで滑稽であるとしても。「それが何だ、これ以上幸せな人生があるか」という雄たけびは、つまらぬこと、些細なことをことごとくかき消してしまう。

補聴器や老眼鏡などの小道具がやけにリアルだった。それを身につけるランディの仕草のあまりの自然さ。それだけに、それだけになおいっそう泣けてくるものがあった。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (10 人)ナム太郎[*] 週一本[*] 赤目 G31[*] プロキオン14 甘崎庵[*] セント[*] 牛乳瓶 3819695[*] 地平線のドーリア

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