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[コメント] プレイタイム(1967/仏)

空前絶後の傑作。これは「世界」についての映画だ。これほど「平等な」映画を私はほかに知らない。史上最も民主主義的な映画ではないだろうか。全ての映画は『プレイタイム』を目指すべきなのかもしれない。
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この映画においては何もかもが平等である。人か物かを問わず何もかもが、である。何もかもがみな等しい程度で世界を構成している。画面内の全てのものに等しく意味がある。ゆえに、ここには特権化されたものは何ひとつとして無い。ここではもはやユロ氏でさえも世界をかたちづくるピースのひとつに過ぎないのだ。

このことは、技法的には徹底的な「被写界深度の深い縦構図」と「ロングショット」の使用によって具体化されている(バストショットすらない!)。これは現在の映画に技術的に許された最も民主主義的な画面であろう。要するに「画面内の全てのものに等しく意味がある」と云っても、それは同時に「画面外のものは意味を持っていない」ことを示唆してしまう。だから映画の民主主義を目指すタチは、一般的な撮影方法では画面外に位置してしまうはずのものをも出来うる限り画面内に取り込もう(=視界を広げよう)とする(この映画が「ガラス」の映画であったことも想起せよ。ガラスは「透明」というその性質でもって、通常であれば遮蔽されてしかるべきものまでも画面上に映し出す)。よって「被写界深度の深い縦構図」と「ロングショット」が採用されることになるのだ。しかし、どれほど被写界深度を深く取ろうとも、カメラが遠すぎれば(=視界が広すぎれば)観客は映し出された個々のものを識別することができなくなってしまう(=画面内のものの意味が消失してしまう)。したがって、映し出されるものがかろうじて意味を保ちうる程度の距離にタチのカメラは据えられることになる。タチが70mmフィルムを使ったのも、35mmに比べて広い視界を取っても画面内のひとつひとつのものを鮮明に映すことができるからだ。70mmより大きなフィルムとそれを映写できる巨大なスクリーンさえあればタチは超ロングショットのみで映画を撮っていただろう。

音についても同様だ。あらゆる音が重層的に処理されており、ここに特権化された音はない。もし特権化された音があったように聴こえても、それは画面の手前に「たまたま」位置していたものの発した音が「やや大きく」ミキシングされているからに過ぎない。あるいは、この映画の音に物理的音量に比例しない特権性ないし恣意性があるとすれば、それは私たちの聴覚自体が日常的に行使している特権ないし恣意のアナロジーに他ならない。

「70mmフィルム」「被写界深度の深い縦構図」「ロングショット」「音の重層的なミキシング」、これらは世界をそのままの形で丸ごと平等に捉えようという民主主義的な映画への試みにとって技術論的な必然である。そして『プレイタイム』におけるその試みはほとんど成功していると云ってもよいのではないだろうか。

全てのものに等しく意味がある世界。それを語るタチのまなざしは限りなく優しく、どこまでも冷厳である。

(評価:★5)

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