★3 | レッドクリフ Part II ―未来への最終決戦―(2009/中国) | 戦略や戦術以上に戦闘の描写に軸足が置かれた。この精緻さは驚異的だ。群集戦闘や火器扱いの表現技術の進歩を大いに慶ぶ。一方、従来の良質の戦争映画で重視された空間把握(距離感や温湿度)や兵士にかかる重力の現実感が致命的に失われてしまったことが残念。 | [投票(1)] |
★3 | カッコーの巣の上で(1975/米) | 想像力を刺激する映画ではなかったが、大義名分の是非を問うた映画であるという見方をやめたときにこの映画の相貌は変わる。「原理主義」の戦いになってしまったがゆえの悲劇に私は見える。白と肌色が支配している領域に入ってきた黒い帽子。婦長の帽子の白との相容れなさがこの帽子に象徴されていた。 | [投票(1)] |
★2 | 鷲は舞いおりた(1976/英) | 長年搦め手の戦術を作品に描いてきながらご当人は正面突撃戦術しか知らないジョン・スタージェス監督らしい作品。教会と周囲の地理の関係が『荒野の七人』同様見えて来ないところがこの人らしい。ドイツとイギリスの平行描写が拙劣。 | [投票] |
★3 | ブルックリン横丁(1945/米) | いかにもダリル・ザナックが制作しそうな社会派映画。典型的な演劇演出をやってしまっている。ブルックリンに住む生活に疲れた家族が、機関銃のようにせわしなく喋り続けてテーマを掘り下げてくる割には、痩せた感じしか与えない。 [review] | [投票(1)] |
★5 | 冬冬の夏休み(1984/台湾) | 緑陰の美しさを忘れることはないであろう傑作。窓外はややきつめのハイキーに、家の中は白壁の温度感にあわせたローキーに、人の肌のみ適正露出に。これで夏の日差しと家の中をそよぐ風の動きが見えてくる。設定だけ決めて俳優の周りに確りと空間を作ってやればドラマが回るという目論みの確かさ。 [review] | [投票(4)] |
★4 | 港の日本娘(1933/日) | 一人の男をめぐる二人の女についてのメロドラマ。完全に女の立場から物語が進行し、骨格の堅牢さは申し分ない。女学生時代と女給時代の二人の女の立場の逆転が強い哀切感を生む。横浜を吹く風の描写が、時と場合により叙情性、力強さ、爽快感など様々な気分を象徴する。 | [投票] |
★2 | 容疑者Xの献身(2008/日) | 画面運びの経済性がない。これだけの人物登場させなければならないのもTVシリーズ由来のせいだからだが、柴咲コウ含めて5人程削れば引き締まった映画になったかもしれない。カットでアクションを割ったとき人物の前後の体の形が違うというのもどうか。 | [投票] |
★2 | 銀嶺セレナーデ(1941/米) | 主役男女が二人ともいも演技で見ていられない。また構成も歌と踊りのごった煮という印象で中途半端。演奏シーンには既に埃臭さがつきまとう。ただ、スキーのシーンだけは豊かな滑走感が画面全体にみなぎりとても快い。 | [投票] |
★5 | 博奕打ち 総長賭博(1968/日) | 主要な登場人物たちが下す一生に一回あるかないかの人生の決断のつるべ打ちによって予測不可能な展開を見せる奇跡のように精妙なストーリーの流れ。鶴田浩二の黒紋付の肩の線が例えようもなく美しい。練達の照明技術に支えられた画面の彫りの深さに驚倒させられる。 | [投票(2)] |
★3 | 踊らん哉(1937/米) | この映画に限らず踊っていないときのフレッド・アステアを一言で言えば尻餅をつく横目にらみの男。ようやく1940年代になって演技が人並みになってくる。踊りだけが突出しすぎたこの不器用さはブルース・リーにも似る。ジンジャー・ロジャースのオールラウンド振りは彼との比較で実に際立つ。
| [投票] |
★3 | 踊る海賊(1948/米) | 美術設計が俳優たちの立ち位置を計算に入れて周到に考え抜かれている。色彩設計もけばけばしさの一歩手前で踏みとどまった統一感がある。ジュディ・ガーランドの人格設計にはフロイト的な視点が入っているようだが、このフィルムの基底部に振幅をもたらすわけでもない。何回見ても不思議だ。 | [投票] |
★3 | ベル・オブ・ニューヨーク(1952/米) | 『雨に唄えば』が大ヒットを飛ばした1ヶ月前の公開らしい。かなり分が悪いと言わざるを得ないが、それでもアステアのダンスは申し分ない。前作の『恋愛準決勝戦』の特撮に劣らぬ空中浮遊のダンスや砂をまいたステージでのタップなど見どころが満載。 | [投票] |
★5 | 異国の出来事(1948/米) | あらゆる発話がブーメランのように当の話者であるジョン・ランドをえぐってしまうとき、笑いと共に自業自得という言葉に要約されても良いペーソスの感覚が作品を覆う。強烈な脚本力に比して、空間創造力の弱さが既にワイルダー痛恨の弱点として露呈されてもいる。 | [投票] |
★4 | 決断の3時10分(1957/米) | 臆面も無く突如始まるグレン・フォードとフェリシア・ファーのキスシーンの生々しい甘美さが、はるか後半の時計にあぶりたてられるようなサスペンスシーンにまでほろ苦い抒情を響き渡らせる。お汁粉に塩とでも言うべき隠し味効果が鮮烈この上ない。 | [投票(3)] |
★3 | 毒薬と老嬢(1944/米) | 人物造形の趣味悪さは、カルト映画の域。実はフランク・キャプラの他作品でも奇天烈性のレベルの相当に高い登場人物が時折登場する。不具不能ゆえに立っているキャラクターというのがキャプラ的人物の本質。ヒューマニズムの裏側には残忍さがはりついている。 | [投票(2)] |
★4 | モンパルナスの灯(1958/仏) | 美しい男優女優のクローズアップのつなぎのなんと大胆なこと! 何よりも指摘したいのは、俳優たちが交わす視線の交錯の角度。この角度の斬新さと切れ味がこの映画を永遠のものにする。1910年代の市井の風俗の取り入れ方も丁寧で、瑞々しい一編に仕上がっている。 | [投票(1)] |
★3 | クレールの膝(1970/仏) | 人物背景に布置される樹木の艶や、木漏れ日の煌きや、画面に入り込む湖の波立ちの加減が、その前景で行われている主人公と友人の女流作家の心理戦の卑猥さを隠しているのか顕しているのかどちらとも取れる両義性に感動する。微妙な露光が身震いするほど良い。 | [投票] |
★3 | ヴェロニカ・ゲリン(2003/米=アイルランド=英) | この映画の機能と性能を語るとすれば、実在者の伝説化に加担するだけの単機能映画、かつ感動の奥行きも浅いゆえに高性能ともいいがたい。しかし、ケイト・ブランシェットの機能と性能という観点に立つと、彼女を一躍有名にした『エリザベス』での彼女を超えている。つまり一実在者の伝記映画ではなくスターの映画なのだ。 | [投票] |
★1 | さらば、ベルリン(2006/米) | ノワールのぶっきらぼうな語り口を模倣するも、気の利いた台詞にも切れのいい編集にもお目にかからないうちに映画が終る。当時のモノクローム映画は白と黒の健全な色彩映画であって、光と影が病的に戯れる陰影の映画でないことも分かっていない。 | [投票(1)] |
★3 | ブラック・サンデー(1977/米) | 80,000人のエキストラを組織するというコンセプト自体は、『イントレランス』を持つハリウッドではそれほど斬新ではないのだが、それでも実録風映像感という意匠のもとで新鮮さが出た。時折被写体を見失いがちなキャメラを演じさせた小技にもくすりと笑わされる。 | [投票] |