[コメント] 羅生門(1950/日)
森における光の操作をはじめとしてこれほど冴えた撮影を誇る映画がしかし最大級の面白さを獲得するに至っていないことに、構成そのものを主題とした映画の限界を見る。ラストは恒例のお説教タイムでげんなり。お前は何様だ? とも思うが、黒澤様なのだから聞き入るしかない。もはや作家の署名である。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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志村喬と千秋実が「こんな怖ろしい話は知らん」だの「もう人が信じられなくなりそ」だのとハードルを上げに上げてから物語は本題に突入するわけだが、やっぱりそこまで大したお話だとは思えない。と観客が感じてしまうとすれば、それはもちろん作者の失敗のためでもあるが、治安が極悪なはずのこの物語の時代よりもむしろ現代のほうが歪んでいるからだという解釈も不可能ではない。現代社会の尺度からすれば、良くも悪くもこの志村と千秋はピュアーで「世間知らず」に見える。
しかししかし、そうは云ってもこれはやはり凄い映画だ。観客の十人中十人に「どこが『羅生門』だ。ただの『藪の中』じゃないか」と思わせる物語を持つこの映画が、しかし半世紀以上も傲然と『羅生門』と名乗りつづけ、またそれが許されるのは、ひとえに羅生門の造型のユニックさのためだ。適度を遥かに超えてボッロボロの羅生門。あるいは「雨宿り」を導くという説話的機能を果たすためだけならばあそこまで激しく降る必要のない過剰な雨。「必要以上」を必要とせずにいられない性を持つ人種を、人は映画作家と呼ぶ。「美術」の映画として史上に残る。
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