[コメント] 晩春(1949/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
非常にアンバンランスな一本。
まず、電車と自転車のシーン。絵自体は非常に好きだが、音楽が間違っている。これ以降の作品を見ても、小津映画の音楽ってしばしばけたたましいのだが、例えば『麦秋』のオルゴールのような楽曲など、エピローグとプロローグを表象していて、けたたましいなりの情感を醸し出していた。でも、これは五月蠅いだけ。おかげで、ちょっと映画に入り込みづらかった。
コメディ・センスというか、会話の妙味は素晴らしい。「海はどっちだ?」談義はタランティーノもびっくりの面白さ。で、そのシーンの「こっちだ。」が、次の自転車シーンを経た砂浜での会話シーンにおける「こっちだ。」との紀子の言葉に繋がっている辺りは追求の余地がありそう。
そのコメディが過ぎると、待っていたのは……ホラーだった。この映画の紀子=節子は怖い。『わが青春に悔いなし』の原節子について女版大魔神或いは狂った観音様と呼んでみたりしたが、この映画の彼女はさながら“呪いの観音様”といった感じ。自分と父親との不可侵なはずの関係性が否定されると、それはそれは物凄い形相を見せる。ファザコン娘の痛々しい純情を爆発させ、禁断の愛の告白に至るまで、終始父親=笠智衆を苛み続けるのだ。そのうち笠智衆のか細い首を絞め上げるんじゃないかとヒヤヒヤしたよ。
この原節子が怖かったというのは問題だと思う。紀子の心情を節子が見せる表情のままに切実に捉えるとしたら、その情念の前で父親の例の嘘は全く嘘に見えない。紀子があれだけガチンコなのに、父親だけが嘘をついていいわけがないからだ。もとい嘘だと思わなかったからこそ、あの受け答えに父親らしさを感じた。ところが嘘だと聞かされ、愕然とした。京都最後の夜、禁断の愛の告白シーンも然り、紀子の純情の前で、父親の陳腐な正論がいかに無力だったことか。原節子が異常な迫力を持ってしまい、それ故に魅力を放つも、それ故に非常にアンバランスに感じられた。
どうすれば笠智衆演じる周吉の像を、原節子の紀子像に拮抗させることができただろう? 答えは『秋刀魚の味』にある。小津はこの『晩春』にあって、紀子の父親に対する思慕を描きつつ、それを美しいままに描き終えようと、それが辿り付く先を語らなかった。語れなかったのか、回避したのかは解らないが、とにかく語らなかった。それは、『秋刀魚の味』にあって杉村春子が演じた、父親に便利に使われ過ぎて行き遅れた娘とその惨めさだ。
周吉には、それを踏まえた上で、紀子をガチンコで受け止めて欲しかった。
…と、こんな風に、紀子像を、見たまんま(節子のまんま)にとらえ、その情念を想定しあれこれ空想を巡らすのは、非常に楽しい。また、一種の官能さえ見出すことができるのも事実だと思う。でも、一方で、それが小津の意図したことだったとは考えづらい。早い話が、紀子の心情をそこまで粘着質のものとして位置づけていたとは思えない。例えば紀子が結婚を渋々承諾し、また鬼のような形相を見せた夜の翌朝、二人は寄り添いニコニコしながら歯を磨いていたが、心理描写の整合性を明らかに欠いていた。だが、小津にとっての中心線は、あくまでニコニコ笑う原節子だったのであり、おっかなすぎる原節子ではなかったはずだし、あのままの周吉が説得力を持ちうる、もう少し弱い紀子像を想定していたんじゃないかと思う。
シーン毎の完成度は抜群なのに、決定的な部分が破綻していたと感じたので、この点数。
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