[コメント] 河童のクゥと夏休み(2007/日)
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最終的にクゥは、コンビニから沖縄へ配達される。近所から郵送すれば勘づかれる確率が高いからわざと遠くのコンビニへ行ったのだろう。康一にとっては、クゥとの別れを前提として、単身、周囲の人間すべてに警戒しながらの作戦決行であるのだから、クゥと遠くへ旅行したシークェンス以上の冒険だ。そこに成長劇としての工夫も感じられる。
それにしても、「コンビニから郵便配達される河童」!これはまた、河童は人間社会に於いては、結局はモノとして扱われざるを得ない、という事でもある。康一がクゥ入り段ボール箱を柵の向こう側に落とす際、クゥに「落とすよ」と言ったり、郵送の手続きの時に「割れ物でお願いします」と告げたり、クゥの生き物としてのリアリティにこだわった丁寧さは、最後まで維持されている。
だからこそ、直接クゥと関った事の無い人間が、「ロボットじゃないの?」と疑う台詞や、携帯のカメラで撮りまくる行為などからは、手で触れられるものへのリアリティを喪失した現代人の欠落感が漂う。ヤジ馬たちの、「クゥちゃんだ!」という叫び声や、「かわいい」という呟きや、東京タワーに登るクゥを見て「危ないよ」と心配する声なども、「キモ!」とか「気色悪い」という声と同じくらいの心的距離感をもって聞こえる。クゥが本物の生き物なのか疑う台詞に関しては、まごまごしてたらその内クゥが解剖されるんじゃないか、と心配になってしまった。
その一方、クゥが安全にあのキジムナーの許へ行けたのは、コンビニのバイトの兄ちゃんのダルそうな声や表情に表れているような、町の無関心さや匿名性、利便性のお陰でもある。キジムナーがクゥを見つけたのも、マスコミの報道によってであるし、キジムナーが人間に化けて、綺麗なお姉ちゃんの居る店に出入りしているという話も含め、妖怪や自然は、人間の文明と、阻害し合いながらも共存しているようだ。
クゥが魚を食べる場面では、生魚の生臭さや、滑らかで柔らかい感触が、それこそ手に取るように感じられたし、噛まれた魚から内臓がはみ出していたり、滴が垂れているといった、微細な部分のリアリティが利いている。キュウリを食べる場面でも、ちゃんとキュウリの固さが感じられるタイミングで、ポキン、と折れる。カタツムリをペロンと食べた時のクゥの舌の、紫がかったような灰色。
僕が受け入れ難いのは、水面をCGで処理していた事。触覚的な描写の光るこの映画の中では、やや違和感があった。また、色々と細部のリアリティにこだわっている割には、キャラクターの表情の線が、『クレヨンしんちゃん』風に、歪んだり簡略化される箇所も多く、アンバランス。
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