[コメント] 陰日向に咲く(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
老婆が残した手紙。「私はいい母親でしたか?」。実際には育てていない子供に対し、架空の人生を重ね、架空の相手に問いかける。
ここから見えてくるのは、今の自分とちょっとだけ異なる人生=“仮想”が描かれている映画ということです。
現実社会からの休暇で浮浪者になるサラリーマン。母親の想い出を探る娘。有名人の父親になりすます浮浪者。自分でないキャラで人気を得る売れないアイドル。その売れないアイドルに恋する追っかけ。 ほぼ全ての登場人物が「今と違う自分」を追う、見方によっては切ない設定。いや、この原作自体が、ボンボンの劇団ひとりがどん底の自分を“仮想”した“ネタ”なのです。やぐちひとりの春樹と同じ感覚に違いない。
原作はどん底の人間が“ちょっとだけ上向く”話なのですが、この仮想と現実の差が、“ちょっとだけ上向く”話にとって、非常に秀逸な設定となっているのです。 つまり、「違う自分(人生)」を通して「ダメな自分」を見直す話なのです。 ところがこの映画は、設定ほぼそのままに“感動話”に押し上げようとした点に無理があると思うのです。
これは「原作と違うからダメだ」という意味ではありません。 原作との比較は愚かしいというのが私の持論で、小説と映画は別の媒体なのですから各々の良さがあって当たり前で、違ってもいいのです(逆に言えば、“映画向きの小説”なんてのはストーリーだけの二流小説なのです)。 問題は、原作の本質を読み解けないまま表面上の設定だけ借りてきた点です。だから、上っ面のお涙頂戴的“いい話”に成り下がっているのです。
例えば、ギャンブル癖から借金まみれになった男が、オレオレ詐欺の標的である老婆と電話友達になり、被害者であるはずの老婆も詐欺と知りながら話を合わせるエピソード。 こう書くと感動話に仕立てやすいように思えますが、一人称で書かれた主人公が、自分にとってちょっといい出来事に触れたことで、どん底の人生からちょっと這い上がれる“希望”を抱くからいい話なのではないでしょうか。
映画は、やれ職場の皆が金をカンパしてくれただの、やれ父親との和解だの余計な“肉付け”をするわけです。そうなってくると話は別です。 老婆と築いたちょっといい出来事がまるで全ての大団円みたいになってしまうのですが、お前のそのエピソードと職場の皆に迷惑かけた問題と一切関係ないじゃん!という感じがしてしまうのです。ちっとも大団円になってねえよ、と。すごーく素直に観たら、和解した父親がまた借金の肩代わりをしてくれるって話に見えてしまうのです。
これはほんの一例で、この映画は全エピソードが同質なのです。 僅かな“希望”で終われば、市井の人々を描いたドラマ足り得たでしょう。 それを安易な感動を得るために分かりやすい大団円風にしてしまった(本当は何も解決していないのに)、悪質な映画です。
余談
「No more War!」と連呼するヌード劇場の踊り子ってのは原作にもあって可笑しい設定なのだが、あれは緒川たまき様じゃないよなあ。鈴木砂羽だよなあ。
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