[コメント] ぐるりのこと。(2008/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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時間は不思議な力を持ってる。何年もの間、カナオ(リリー・フランキー)は傷ついた翔子(木村多江)にただひたすら寄り添い続けた。末期癌におかされた翔子の父もまた、寄り添い続けた愛人のもとで穏やかな表情を浮かべていたという。愛情や信頼とともに流れた時間は、ゆっくりとではあるが確実に絆を育む。
翔子が傷ついた1993年、時を同じくして日本の社会も、分不相応にふくらみ続けた経済が崩壊し大きな痛手を負った。そして、暗く息苦しい時代が始まった。翔子に罪がなっかたように、傷つき病んだ社会にも罪はなっかたはずだ。10年近くに及ぶ時間を費やし翔子は立ち直ったが、私たちはまだ荒んだ時代のなかを生きている。
私たちは、傷つき病んだ社会を恨み、時代が早く過ぎ去ることをひたすら望んだ。そのとき、私たちに社会を愛し信頼する心があっただろうか。社会を愛し信頼するとは、社会を形づくる自分と周りの人々の双方を等しく愛し信頼することだ。愛されなくなった社会、信頼を失った時代は、不幸な世相の連鎖を生み続け、人々のメンタリティを蝕み闇へ闇へと加速しながら落ちていく。
この15年の間、私たちは時代に寄り添うことを怠り、過ぎ行く時間とその意義に無自覚すぎた。橋口亮輔は、時間を自覚することの大切さを象徴的に描く。時間の自覚とは、時の流れを自らの心にしっかりと刻むこと。すなわち四季の移ろいを感じ、それをいとおしむことだ。翔子は、四季折々の自然を次々と、しかし時間をかけて写し取っていく。一点、一点、描き綴られ、翔子に寄り添われた「時間」はついに天井一面をおおい結実するのだ。カナオもまた裁判所の殺風景な廊下から、窓の外の世界に目を向けて絵筆を走らせる。彼の視線の先にも、愛情と信頼が注がれる大切なものがきっと存在するのだろう。
わずかなショットで構成しながらも、的確に人間の暗部をあぶり出す法廷シーンが見事だった。社会や時代からはみ出した人間たちが垣間見せる心の闇は、背筋が寒くなるほどの迫力があった。そして、彼らの不気味さの裏側に、批判や評論するのみで、やはり社会と時代に無自覚であり続けた私自身のずるさを見たような気がする。
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