[コメント] ザ・マジックアワー(2008/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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三谷幸喜は近年まれに見る良心的で健全な喜劇作家だと思う。その健全さがもっともよく現れていたなぁと感じるのが、あのおじいちゃんが「私も実は待ってるんだよ」というシーンで、物語を転がす役目を存分に果たした後の一キャラクターに対してしっかりと魂を吹き込んで見せるあたりで、私は無性にこの作家を信じたいと思ってしまうのだ。
村田との邂逅を経て、物語上、あのおじいちゃんの役割は完全に終了している。あのまま映画から退場したって、何の問題にもならない。だけど三谷は彼にも人生を与え、目標を与える。生きた人間として描こうとする。それは、自分の物語に登場する人物を誰ひとりとして疎かに描かないんだという彼の決意であり、物語作家としての良心だと思うんだ。
いつからか、たぶん松本人志の登場からだと思うけれど、笑いというのはとてもデリケートな分野になってしまっている。笑う前に「理解する」というプロセスが必要になって、「理解できない」ことに、下手をすると観客が負い目すら感じなければならないような風潮がある。そういう風潮がここ10年くらい続いていたように思う。で、それに対するアンチテーゼとして今度は五味というのが「エンタの神様」で、無理くりにでも「理解させる」というたいへん乱暴な方向に舵を切った。そしてみんなが自虐ネタとあるあるネタしかやらなくなった。笑いは記号化した。自虐とあるあるは誰も傷つけることがないから、PTAから苦情も出ない。そして日本のテレビから、誰しも気軽に楽しめるコントは消えた。
三谷の笑いはそれらの流れとは、まったく別のレールを走っている。彼は観客に理解を求めるでもなく、押し付けるでもなく、ただ自分の物語を信じて笑いを生み出そうとしている。そして卓越した才能でもって、それを達成している。まずその点において彼は日本のメジャーシーンでただ一人の男だと思うし、その上で彼の物語には愛があるのだ。映画に対する愛、すべてのキャラクターに対する愛、自分の脚本への愛、そして大衆への愛。
『ザ・マジックアワー』はラストでかなりバタバタしたし、かつてのサンシャインボーイズやパルコプロデュースで見せたような「カンペキですね!」としか言いようのない三谷喜劇の真骨頂にはまだ達していないかもしれない。それでも、大衆喜劇として充分な品質を抱いた作品だったと思う。例えば松本人志や倉本美津留やマッコイ斉藤がやってるようなコアな笑いのファンが、そのコアっぷりを理解できない人に対して「これが解んなきゃミタニコーキでも見てろよ」って言い出すようになったら、それこそが三谷喜劇の勝利なんだと思う。大衆性と普遍性を持った笑いだけが、文化になりうるんだ。
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とはいえ、ぼくは松っちゃん好きよ。あとエンタはどうでもいいです。
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