[コメント] 万引き家族(2018/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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安藤サクラとリリー・フランキーは、万引きしてきた人間で家族をこさえていたんだな。「万引き家族」って、人の万引きでできた家族のことだった。もちろんリリー・フランキーは、商品を万引きするし、万引き技法を万引きしてきた男の子に継承さえする。万引きの正当化の理屈さえも。
万引きは貨幣と交換されないがゆえに万引きとなる。子どもをさらっても、脅迫せず身代金を取ったりしていなければ誘拐じゃ無いという安藤サクラの理屈は、誘拐には仮にあてはまったとしても万引きにはあてはまらない。子どもたちは誘拐されたのではない、万引きされたのだ。
では、お金を払って子どもを手に入れればよかったのかといえば、万引きはそれで放免されても人間の万引きはそれでは放免とはならない(お金を払って子どもを手に入れることは社会的に許容されない)。なぜか。人間はお金を対価とすることができないから。ん?んんん?本当にそうか?年金は?保険金は?給料は?全部人間の対価じゃん。
では、なぜお金を払って子どもを手に入れることは通常行われていないのか?
「血がつながっていない方がキズナが深いよね。」と言ったときのあの安藤サクラの顔!
商品は万引きできるが人だって万引きできるという問題提議は、「人間=商品」となった現代への批判でもなく、実の親子は愛でつながっているという欺瞞の告発でもなく、人は商品として生きることも選択できるという、商品化された人間になるのではなく、自覚して商品としての人生を選び取るならそうすればいいし、そうじゃない生き方も可能なんだよ、という是枝監督の主張だったように思う。
男の子は、万引き技法を、これまた万引きされてきた女の子に継承しようとし、柄本明に継承を禁じられる。この禁止によって、男の子は商品を店に返すように女の子を家に帰すために「わざとつかまる」。この段階では、子どもは商品のメタファーのままである。
シーンが進んで、獄中の安藤サクラは、自分たちのしたことが子どもの万引きだったことに気づき、リリー・フランキーと男の子に面会を申し込んでそれを伝える。万引きの技法を子どもに継承する擬製の父と、万引きされた商品と同様に扱われていることの種明かしをする擬製の母という対比(手品のシーンが暗示)。
子どもは両方を学ぶ。男の子は、自分が万引きされたことを自覚する。
人間に値段がつき商品化されることがあたりまえの現代社会において、商品と人間とを別つものは、商品は自分が商品として扱われることに自覚的でないのに対し、人間は自覚的でありうることだ。
商品は商品として値付けされ貨幣と交換されるか売れ残るか万引きされるかしかない。人間は値付けされ労働を提供し貨幣を得るか解雇されるか誰かにさらわれ他人の人生に隷属させられた脇役として生きるか、それが人生だ。だが、万引きを拒否できない商品に対し、意識だけでも自ら棚を去ることができるのが自覚した人間だ。そのことを最後のシーンで女の子が教えてくれる。
でも、自覚的に商品である人間は、自覚無く商品として扱われていることに気づかずに日々を過ごす人間に対してどうなんだ?ここには是枝監督は踏み込まない。ここに抑制を効かせているのが実に是枝監督らしい。ただ、逆に、商品に自覚が芽生えればどうなるかについては踏み込んだ作品がある。それが『空気人形』に思えてならない。
そんな、感想を持った。
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