[コメント] ゴジラ-1.0(2023/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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周囲からうながされ、操縦席に乗り込み機銃を構えるも、到底撃ち殺せるようには見えない「彼」の絶大な圧に屈し、ここでも何もできず、罪悪感を背負うことになる設定が抜群に良い。
1991年の『VSキングギドラ』において、ラゴス島の恐竜としてゴジラ・サウルスが出てくるが、あのとき見たかったのはまさにこのような圧力だったとも思える一方で、演出の端々にむしろ『ジュラシック・パーク』がチラついて見え、やや引いてしまう……というのは特撮オタクの悪い壁だと今や自覚している。掃海艇が追い回されるセカンドコンタクトでは、今度は『ジョーズ』がちらつくのだが、円谷特撮よりもスピルバーグやルーカスに影響を受けて培った「VFX」が『ジョーズ』『ジュラシック・パーク』といったオリジナルの迫力をゴジラのスケールに見事に変換した成果を素直に称えるべきなのだ。スペクタクルのシークエンスはどれも、(口さがない前任者が言うように)考証にいちゃもんをつけることはいくらでもできるのだけれど、それでもなお引き込まれる。機雷をくわえさせて吹っ飛ばすって、これ、ジョーズにガスボンベくわえさせたのまんまですよ! でもはるかに興奮する……再生設定は(再生すること自体、安いクリーチャーのそれだと思っているので)安易に見えて、気に食わないんだけれども…!
正直言ってわたくし、この映画を褒めたいのか、貶めたいのか、自分でもよくわからない。ひとまず自分の感触を整理するために、他の突っ込みたくなった箇所を列挙してみよう。
・列車からぶら下がるヒロインが落下…ふつうに死ぬだろ。川ポチャまでは許容できるし、上から残骸が降ってくる容赦のなさも最高だが、しかし、どうやって上がってきた。。
・おうちで娘を見ていた主人公、空襲警報を聞いて銀座に駆け付け、一直線にヒロインを発見! …いやあ、どうかな。銀座蹂躙は前半のハイライトで素晴らしいのに、ちょっとここが引っかかって入り込みづらかった。
・彼女が主人公の身代わりになって爆風に吹き飛ばされる…やっぱり死ぬだろ。生きていた彼女の首筋が、ゴジラの皮膚のような火傷の片鱗を見せている…まあ、許せるかな。ここに限らず、どこも言い訳が用意されているのは、きちんと考証した証とも言える。掃海艇が木造だとかよく練られているし、自衛隊発足前で民間というのも『三丁目』的意匠であると同時に、思想的面倒ごとを回避するのにも役立っている気がする。
・どんな生物も粘膜や内臓はもろいという感覚に則り、アメゴジもアメカゴジにやられかけたが、核爆発級の熱戦を放射する口が爆薬の寄せ集めで吹っ飛ぶって、考えてみると矛盾な気が…
・沈めてだめなら間髪を入れずに引っ張り上げてという話だった気がするのだが、小僧が応援に駆けつけて船をロープでつなぎ終えるまでにどれぐらいかかったのだろうか。
・米ソが牽制しあって不関与を決め込むのが物語の最大の言い訳になっているのだけれど、第三の核爆発とも言える被害を未知の怪物がもたらしたとなれば、大国が放っておくはずがない。それを自分たちが制御しなければ核抑止は機能しなくなるからだ…というのは、1984年版を筆頭にこれまでシリーズがさんざんやってきたから、今回はいいや。「怪獣」「かいじゅう」「KAIJU」と昨今は方々で連呼されすぎなので、そこがないのもよかったと思う。
・安藤サクラがおもくそツンから入ってきたと思ったら、即座にデレる。整備兵をちょこざいな手紙で呼び寄せるとか、作劇上のアンチの演出が五月蠅いのに下手で、このあたりは山田洋二あたりに比べてしまうと…なんて思ってしまうところが自分にはあったりするのだが、いっしょに見た妻も娘たちも、あるいは世間一般もそんなに違和感ないようで、むしろ熱演を絶賛トーンだ。なんちゅうかモヤっとしたものを感じるのは、「あんた、怪獣のことばっか考えてんじゃないわよ!」と、おかんから水を差されるような気になるのかな…
ついでなので、個人的に最大の「ないものねだり」をするのであれば、最大の不満は「ビキニ環礁」のくだりなのです。アメゴジが嫌いじゃないのに東宝チャンピオンまつりの復刻としか思っていないのは、このモチーフに関わる許しがたい改竄があるからだ。それを、本作は、掘り起こしてきてくれたというのに、さらりと流してしまった。あそこで何があったのか、実験がどれほど彼を苦しめたのか、苦しみながらもどのように力を得て、どのように化けたのか、それがどんな感情を伴ったのか…「彼の怒り」は単なる物語上の設定ではなく、核への怒りそのものなのです。この映画は、初代が担った戦争の暗い影というモチーフには実に誠実に取り組んでいるので、これはもう完全にないものねだりなんだけれども、アメリカが生んだ原子の炎によって変えられてしまった彼の悲劇が唯一の被爆国を襲うというもう一つの大きなモチーフにはそれほど踏み込めていないと、わたしには見えてしまう。気概に満ちた本編ですが10分カットして、ここやって欲しかった。
ラストに関しては、特攻は「しない」という筋も見えていた。自分は「安全装置のレバーが、実は脱出レバーになっているんだろう」と思っていたのだけれど、ミスリードの種明かしはそのあとに隠されていた。とはいえ同じことだ。「この国は、命を粗末にしすぎました…」という博士の台詞に込められたメッセージ、二度目の正直で彼の頭の吹き飛ばした演出の熱量は賞賛したい一方で、2001年のGMKすなわち金子ゴジラの鋳型を同じぐらい強く感じもした。あるいはそれは、戦争を知らずに今を生きる我々が基本的に覆せない倫理観とも言える。実はシリーズは近年、この逆もすでにやってしまっている。映画の方のアニメ、三部作の最終『星を喰う者』(2018年)の結末がそれだ。批判が多い同シリーズではあるのだけれど、自分はあのラストが非常に胸に残っている。
最後に、山崎監督について。『ジュブナイル』をレンタルで見て、『リターナー』を映画館で見たきりとなっていた。『リターナー』でバックボーンが見えて、ハリウッドかぶれだろうと安易に見切って、その後は見ておらず、邂逅は『ゴジラ・ザ・ライド』だった。怪獣少年中年にとって夢のような体験だったので、『続・三丁目の夕日』の冒頭を確かめたのだけれど、正直って昭和という時代に宛てるべきカメラワークとは思えず、今作はかなり不安だった。でもそれは、誤りだったと今は思う。クライマックスの海戦は『シン・ゴジラ』(2016年)の市街戦に見劣りしない、本編=人間=現実と特撮=ゴジラ=虚構の「肉薄」を醸成したコンティニュイティが圧巻、シリーズで群を抜くレベルだった。少年が「自分もゴジラを作りたい」と思っても、それを実現できる者は限られている。実現する者は、それにふさわしい苦難の現実を乗り越えてきた、まさにザ・クリエーターだけだ。あんな作品でもこんな作品でも炎上していたように見えた監督は、それでもぶれず、まさに「彼」のように業火を潜り抜けて、今この作品を放ったのだろう。作った者のみがその資格があった者であり、この作品はそう言われるにふさわしい熱と力を持っている。多くの人に届けと願ってやまない。
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