[コメント] ジャッキー・ブラウン(1997/米)
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それまでの変化球を期待していると肩すかしを食ったように感じるのかもしれないが、タランティーノは本作でまだ監督作3作目。彼の持つ球種をこちらで勝手に見極めるには(立て続けに『博士の異常な愛情』『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』と傾向の全く違う作品を撮ったキューブリックの例を持ち出すまでもなく)まだまだ早い段階だと言えるだろう。
前2作の爽快なスピード感とプロットのひねりは大好きだが、人間臭くて哀愁感漂う本作もまた鑑賞毎に噛み応えが増すような違った魅力がある。個人的にはむしろ、本作であらためて、タランティーノが単なる話運びのうまい一脚本家にとどまらず、「映画」をつくれる人だということを確認した。前2作がどちらかといえば話の魅力、プロットの力で、時には観客を置いていくくらいの勢いでぐいぐい引っ張っていく作品であるのに対し、『ジャッキー・ブラウン』は、何のひねりもない平凡な話。そこにはもう面白可笑しい(パルプな)フィクションはない。(しかも、これ、群像サスペンスと見せかけ、実は中年男女の恋愛映画だったりもする。なんて怖いもの知らずな奴だ。)そんな話の中、148分の間、そこにあるのは、表情や歩き方など、生きている人間の魅力。ラスト1分の車内でのジャッキーの表情の何と人間臭くて美しいことか!映画を観終わって残るのは、話よりも、いくつもの役者の表情だった。
そういう意味では、これはタランティーノによる映画だが、彼が役者を撮った、役者の映画なのだろう。近年はさっぱりだった70年代B級映画(Women-in-Prison映画やBlaxploitation映画)の女王パム・グリアーを作品名でもある主役に抜擢し、映画関係者にも批評家にも観客にも忘れ去られていたロバート・フォースターを起用し、スクリーン上で見事に蘇生させたタランティーノはやはり流石だが(「パルプ」当時に同様の状況にあったジョン・トラボルタの配役にも唸らされたが)、しょぼいはずの役者達の顔がとにかく輝いているのだ。オープニングに始まり、「長すぎだろ!」と突っ込みたくなるくらいに続く本当に長いパム・グリアーのいくつかのショットは、どれも素晴らしい。特に、引渡し後にマイケル・キートン演じる刑事に「君がバカなことをしていなければいいと本当に願ってるよ」と言われた後に僅かにグリアーが涙を見せるシーンにはやられるし、ラスト、受話器を持ちながらも目で外の彼女を追い続けるフォースター、曲に合わせて「百十番街交差点」を口ずさむグリアーのシーンには、本当に紛れも無い映画的時間を感じる。それはタランティーノが丁寧に人間を掘り下げたということであることはもちろんだが、それと同時に、あるいはそれ以上に、やはり、そこにパム・グリアーがいて、ロバート・フォースターがいたということなのだと思う。
最後に、この映画の駄目なデニーロは驚くほど良かった。彼の出演作はほぼ全作品鑑賞したが、本作での彼が一番好きかもしれないとか言ったらヒンシュクなのだろうか。
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