[コメント] ルードウィヒ 神々の黄昏(1972/独=仏=伊)
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ビスコンティ映画の登場人物は全てに神経が行き渡りに忽せにされません。 キャラクター・システムと呼ばれる手法。感情のリアリズム。 一人一人を、バックストーリーを持った一個の人間として大事に扱う姿勢こそ、 ビスコンティ映画の特徴ではないでしょうか?
今回はルードウィヒを中心に、全ての登場人物を描く大作です。 そのルードウィヒには一番のお気に入りヘルムート・バーガー
ビスコンティのルードウィヒへの興味は、渋澤龍彦のような「異端」礼賛ではないように思われました。 自ら運命を切り開けない受け身の人間。あまりにも弱すぎて、 予め敗北が約束されているような人物だからではないでしょうか? 前半のルードウィヒの行動はビスコンティ作品共通の「恥」そのものです。
美しい軍服を来て階段を降りるルードウィヒ。壁一面に鹿の角。 見向きもされないような贅沢のためにも、どれだけの犠牲が払われているか、 まるで考えない。むしろ当然のものとして受け止める育ち。甘やかされた人間。
ワーグナー(トレバー・ハワード )は前作「『ベニスに死す』」のカリカチュアとは逆のリアリズム。 ワーグナーを冷たい芸術家にしたことで、ルードウィヒの自分の身勝手な幻想を一方的に投影して崇拝してしまう自我の未熟さ、依存性も示していたようにも受け取れました。
ビスコンティ映画の大きなテーマである「孤独」。 でもルードウィヒを愛する人達はいたはずなのに・・。
公私ともに不遇だった当時のロミー・シュナイダーのために用意したかのようなエリザベート。バート・イシュルのサーカス小屋での登場から、言葉では言い表せない素晴らしさです。その衣装も手袋まで、降ろした髪までも・・生き生きとして、時に毅然として気品ある姿は、ビスコンティ特有のアンチ・フェミニズムの欠片も感じられません。しかしエリザベートはルードウィヒの理解者というよりは母親のような愛情を持つ存在のように感じられました。
王の弟オットーを演じるのは、もう一人の伝説の美少年ジョン・モルダー・ブラウン。 「我々は親戚同士で結婚し、殺しあう」などと傍観者のようなルードウィヒに対して 「兄上の力で戦争は防げたはずだ」と悲痛な叫びをあげます。 それなのに「私にとって、この戦争は存在しなかった」とまで逃げるルードウィヒ。 国民を守る責任感はない国王。愛する弟さえも守れない兄。
『地獄に堕ちた勇者ども』で洗練されたナチ親衛隊を演じたヘルムート・グリーム。 この映画では誠実な忠臣デュルクハイム大佐を演じます。 プロイセンとの戦争に負けて、「早く終わってよかった。」と漏らすルードウィヒに「7週間です陛下。戦っている者には永遠かと思われました。」と答える大佐。 他人の痛みが感じられないルードウィヒ。 (この場面での孤独についてのやりとりは感動的かつ重要です)
王の成長を見守り、祈り続け、熱心に説教する神父(ゲルト・フレーペ)の声も届かない。エリザベートの妹ソフィ(ソニア・ペトロヴァ)には愛する努力もしないルードウィヒ。傷つけただけで終わってしまう。婚約を破棄して男色へと踏み込む。またも逃避。その相手従僕ホルニヒ(マルク・ポレル)は王に不利な証言を決してしないのに、ルードウィヒにとっては愛する対象でもない。
この後の狂気は、まさに報いを受けるといった感じで、罰かのような無残な姿です。回避的な人間が最後に逃げ場を失う怖さ。愛や責任に応えないエゴイストがたどる孤独地獄。感謝のない贅沢のつけである「虫歯」の痛みは麻酔中毒も含め、美貌と健康を奪ってしまいます。そしてパラノイアの烙印。
エリザベートがヘレンキムゼー城の鏡の間を模した作りに笑い声をあげるところ。 淀川先生は「王族世界以外に何ひとつ知らないルードウィヒの孤独が撥ね返る」と言われました。
でも個人的な印象としては、エリザベートはよく言われるような「永遠の恋人」ではなく、「母親」をイメージしているように観られました。結婚しているはずなのに夫君は影すら感じられません。まるで意図的に女性的な部分から目を背けているかのようです。それでいて、あまりにも魅力的な姿なのです。かといって憧れの対象でもなく親しみがあり、受け入れているようでいて厳しいような複雑な描き方。この笑うシーンも「困った子」というようなニュアンス。理解でも嘲笑でもない不思議な感情。
「『家族の肖像』」のドミニク・サンダも、「『ベニスに死す』」のシルバーナ・マンガーノもそんな印象を受けました。あまりにも率直なビスコンティ映画だったので、ひょっとしたら自らの苦しみを寵愛するヘルムート・バーガーに演じさせると同時に、可愛がっていたロミー・シュナイダーに最高の母親を演じさせ、自らの”虚しいくらい美しい”作品を捧げたのかもしれません。
完全版(4時間)のも観ました。けどイタリア語版で吹き替えられていました。 ロミー・シュナイダーの声はちょっと低くて太すぎるような感じでした。ヘルムート・バーガーはジャンカルロ・ジャンニーニだったので良かったです。
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