[コメント] チェブラーシカ(1969/露)
チェブラーシカはなぜ、ピオネールの「行進」にあこがれるのか?
「行進」という動作は「近代」という価値観が生み出した身体動作だ(※)。 それは「行進」をするピオネールが、共産党が組織した少年団である、ということからもわかる。 だから「行進」にあこがれるということはつまり、「近代」へのあこがれ、ということになるの だが、ではその「近代」にあこがれるチェブラーシカは、一体何ものなのか?
ワニでさえ(動物園でワニとして働く)「労働者」である国にあって、何ものか分類不能であるチ ェブラーシカは「近代」の枠組みからはずれたもの、つまり「前近代」の体現者なのだ。 その「前近代」が「近代」に出会ったとき、何が起こるのか? 「前近代」と「近代」という異質 な文化が出会った瞬間、すさまじい反応が起こる。そして、その反応が生み出す衝撃に耐えられな ければ、もはや感覚を麻痺させ「ばったり倒れる」しかない。それ故に彼(彼女?)は「ばったり 倒れやさん」と名付けられた、というわけだ。
このチェブラーシカは、つまるところ旧ソ連の人々そのものではないのか?
農奴制の残る場所に、革命によって作られたソビエト連邦という人工的な近代国家の枠組み。その 急激な近代化は過酷な歴史を生み、その激動にさらされた人たちは、ロシアの土着性という「前近 代」と、ソビエト連邦という「近代」の狭間で、まさに「チェブラーシカ」だったのだ。その「ば ったり倒れた」記憶があるからこそ、現代のロシアでもチェブラーシカは愛されているのではない だろうか。
さて、ではここ日本はどうだろうか? 日本もその急激な「近代」化のなかで「ばったり倒れた」 のではないか? その記憶があるからこそ、このチェブラーシカが単館公開ながら意外な人気を呼 び、ロングランになっているのではないか?
だからこそ「ばったり倒れる」しかなかったチェブラーシカが「行進」にあこがれる様子には強く 違和感を感じる。もの凄く危険だ、と言ってもいいかもしれない。無邪気に「行進」にあこがれそ のマネをするのでもなく、もちろん「ばったり倒れる」のでもなく、それ以外の道を見つけなけれ ばいけないはずなのだが…。
※ 明治10年の西南戦争の折り、農民を集めて作られた政府軍が「行進をしながら素早く移動する」 ということが出来ずに指揮官たちが困った、という話は有名だ。当時の普通の日本人の歩き方は、 同じ側の手足を同時に動かす「なんば歩き」が一般的で、隊列を組んで素早く走るために必要な 「西洋の近代的な歩き方」、つまり手足を交互に動かす歩き方ができなかったからだ。 それゆえに学校の体育では軍事教練の内容が導入され、子供たちに「行進」と「近代的な歩き方」 を徹底的に教え込んだ。今、私たちが普段している歩き方というのは、そのようにして日本人が 「近代的身体」を修得した結果なのだ。 今でも学校の体育で「行進」が重要視されるのはその名残り。緊張した人がする「なんば歩き」を 私たちが見て笑うのはつまり、「前近代的」動作を笑っているわけだ。
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