[コメント] となりのトトロ(1988/日)
↑のコメントを書いたのは、まだシネスケに入れてもらったばかりの頃、6年くらい前のこと。
自分が、この『となりのトトロ』を初めて観たのは、高校の文化祭。ふと足を踏み入れたアニメ・特撮系同好会の展示でビデオ上映されていたのだ。何の気なしに観始めたら目を離せなくなった。風にそよぐ木々の葉一枚一枚に至るまで繊細に描きこんだ画作りは、小学生の頃テレビで観ていたアニメとは明らかに質が違っていた。内容も子供向けでありながら、日常のすぐ隣りに在るファンタジーを印象的な世界観で描いたもの。いったいこれは何なんだ、と激しい衝撃を受けた。
その後十数年、この映画を再び観ることはなかった。テレビで幾度も放映されていることは知っていたが地上波民放で映画を観る習慣がなく、また敢えてレンタルしてきて観る気も起きなかった。そんな状況で書いたのが↑のコメント。
さて、それからさらに6年の時が流れ、コメントを書いた当時独身だった自分も、結婚して二児の父となり、今では二歳になる長男に付き合わされて、この映画のDVDをアホのように繰り返し繰り返し観ている。もちろん初めて観たときの衝撃はもう蘇ってはこない。が、一方で、いくら繰り返し観ても全く飽きないというのも驚くべき事実。そのことだけでも素晴らしい映画だと言ってしまってよいと思う。
特にオープニングからの30分間、メイが初めてトトロに会うくだりくらいまでの、鑑賞者を惹きつける吸引力は凄い。サツキとメイが新しい我が家、新しい環境に興奮しながら馴染んでいく様子に、そのまんま同化して観ることができる。それだけ世界が綿密に構築されていることの証左だろう。まっくろくろすけや、ドングリや、二階へ上がる階段や、庭から見えるクスノキの大木や、散りばめられたガジェットもこの上なく魅力的。
そしてこの作品は「包容」の映画でもある。この物語のポイントになるのは、サツキとメイの父親に代表される大人たちの目線だろう。子どもたちの見聞きする世界をけっして否定することなく、大らかに受け止める。比較することに特に意味はないが、後の「千と千尋」における両親の目線とは対照を成している。この大らかな「包容」イメージが映画全体に貫かれる。トトロや猫バスの柔らかく包み込むような触感。クサカベ家が住むあの古い家にしても、木のトンネルにしても、或いはあの田舎のコミュニティにしても、「覆われ」「包まれ」ている状況に安心感と幸福感が生まれている。逆にその分、他の宮崎作品に比べると広い空間を自由に飛び回るような開放性の面ではやや劣るのかもしれない。
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