[コメント] 光の雨(2001/日)
自己啓発セミナー、新興宗教、カワイソーなジブンだからこそのカワイージブン、陳腐なコトバを羅列した行間ではなく空白ばかりの<ガンバレ、ジブン>本、通りすがりの道端で安っぽく無責任な「詩」と称した<ガンバレ>を売る人買う人、ジブンが知りたくて癒されたくて絵本化した哲学に群がる人、ジブンしかいない閉塞的ワンウェイ・コミュニケーション、ジブンは…、ジブンが…、ジブンだけが…
いつから、そういう自閉的な躰でしか世界と接することができなくなったのか。その萌芽が、この作品で描かれる時代前後、60年代から70年代のいわゆるポストモダンの時代にあるのだろうし、それ以降の世代で、その「自閉性ジブン志向」はせっせと育まれてきたのであろう。
高橋伴明監督は、連合赤軍関係事件を20世紀中に描かなければジブンの「20世紀が終わらない」、そういう意識のもとに、この『光の雨』を映画化したそうだ。それはすなわち、「あの世代」を代表した高橋伴明なりの映画監督としての「自己批判」であり「総括」であると言って、過言ではないと思う。
そういう意味では、非常にイタイ映画である。ナンジャコリャである。
微視的な問題については、他のコメンテーターの方々が挙げてくださっているので、この映画が抱える巨視的な問題について書いてみたい。
原作をメイキング仕立ての二重構造にし、さらに、途中で劇中の監督交代劇が起こり、劇中劇も二部構成。「あの世代」と「次の世代」の二つの視点から、事件を<見る>ことによって、事件そのものの特殊性を、悪く言えば隠蔽、良く言えば普遍化しようとする試み。それこそまるで、劇中の「総括」、「それはすなわち自己批判と自己批判に至るまでの相互批判」の"ワケわからんわ"の実践、「逃げ」と言うより、一言で言えば、迷走である。監督の総括宣言とは反して、実に不甲斐ない。
喩えるなら、商品の過剰包装である。それも野暮な趣向を凝らしつつ、安っぽいビニール袋や紐で幾重にも包まれ、なかなか切り口が見つからない。包装する方としては楽しいかもしれないが、貰って開ける方としては実に面倒臭く、しかも開けた後はゴミでしかない。しかも、中身は「誰にでも起こり得る」などという、安易な着地点<異常者の全体主義>である。
確かに、彼ら「革命戦士」は元を正せば、我々と変わらぬ「フツーの人間」なのだろう。だが、どうだ、それでは誰もが革命戦士になってしまうのか?あの時代に生きた人間ですら、各々が様々な反応と行動を取ったはずではないのか?
私から言わせてもらえれば、野球選手の誰もがイチローになれないように、異常者になるのも「才能」がいるのだ。誰もがそのポテンシャルを持っているからと言って、みんなが異常者になるわけではない。環境や教育は勿論重要な要素ではあるが、潜在的な能力が必要なのだ。それを、異常者が何かとんでもない事件を犯すと、歪な民主主義・平等主義を勘違いに矜持した戦後世代は得てして、それを普遍化し一般化してしまう。
もし、この映画が、あの「革命戦士の過剰一般化=異常者の一般化」を謳うことを意図せずに、ただ、「フツーの人間」が、いかにあのような事件に巻き込まれ、残虐で非情な行動を取るようになったのか、その引き金(trigger)、そのメタモルフォーゼを描きたかったのならば、明らかに失敗している。*大体、山本太郎にそんなカリスマ性はない。裕木奈江は善戦。ただメイキングシーンでは…
少々きつい言い方かもしれないが、この映画の<語り>の手法は「晦渋」の対極にあり、しかし<語り>自体は「晦渋」そのものだ。たとえば立松和平氏の猫撫で声で媚びた「ありがとう」やエンディング・クレジット後に現れる不気味で意味ありげなシーンに象徴されるような、割り切れない勇気のないヤサシサ(優しさ、易しさ)故に、自己批判どころか、「あの時代」から<生き残った>ことに対する歪んだ罪悪感を基底とする、自己憐憫と自己擁護の生温い海に漂っているのみである。自己完結しているのならまだいいが、妙に媚び諂っているところが問題なのだ。
ただ、これまで詳しく語られなかった物語を、自ら語ろうとした、その意気込みと決意には、敬意を表したい。しかし、「ジブン探し」の後に来るものが、「みんなみんなジブンなんだ、友達なんだ♪」ではイタすぎる。
両論併記的な、懺悔のような、ヤサシイ姿勢ではなく、貴方が見た、貴方の目が見た、「あの時代」を語ってほしかった、と僕は切に思う。
[京都みなみ会館/1.24.02]
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