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[コメント] 血と骨(2004/日)

忌み嫌われるべき圧倒的な暴力と、同時にそこに庇護されてしまいたい本能的衝動。全く肯定はしないけれど、「父」という存在の一つの側面はここにあるのかも知れない。原作者が父を描いたからこそ表現できた、家族と父親との不思議な距離感。
Myurakz

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 東京の端に生まれ、今もそこに住まう者として、地方から出てきた人たちのバイタリティに驚かされることがままあります。それは社会に出てから特に感じるようになったことで、仕事や遊びに対した時、その積極性が明らかに違うんです。もちろんそれは全ての人々に当てはまることではなく、ひょっとしたらたまたま僕の周りがそうであるというだけの話なのかも知れません。ただ僕はそういう時にどうしても、「この人たちには生半可なことじゃ勝てない」と思ってしまいます。そしてそれは、僕らにとって「住み続けている場所」なだけのこの土地が、その人たちにとっては「何かを求めてきた場所」だからなのだろうと考えるんです。

 「何かを求めて移り住んでくる」ということは、つまり「故郷を後にして来る」ということです。好きな故郷、嫌いな故郷、理由は様々でしょうが、少なくとも彼の人たちは「何かを求めて」ここに来ます。逆に言うと、その「何か」を得ない限り、故郷を後にした意味が無くなってしまうんです。

 もちろんその「何か」は「幸せな家庭」でも「安定した職業」でもいいのでしょう。「文化」でも「刺激」でもいいのかも知れません。ただそれが「祖国を捨てて来た」ということになると、「得なければならない何か」も必然的に大きくなってしまうように思います。

 そんな「手にしなければならない代償」を抱えた移民の人々の中においてさえ、ひと際畏れられてきた男。その男金俊平は、誰よりも強くなくてはならなかった。誰よりも金を稼がなくてはならなかった。そして儒教的父系社会である朝鮮民族の者として、誰よりも「父(=一家の長)」でなくてはならなかったんです。

 事実彼は強く、そして金を稼いだ。彼にとって、「父」として慕い敬われる条件は見事満たしたはずでした。だが家族は彼を敬わなかった。だから彼は一層人々を殴り、金を稼いだ。僕は、彼はただ「完全なる父」になりたかっただけなのではないかと思っています。彼は娘を問い詰めます。「お前、俺を何だと思ってるんだ」。そして娘の死に怒りを露わにします。どんなにいびつに歪んでも、彼にとって家族はやはり家族だったんです。

 自分が完全に責務を果たしているにも関わらず、自分を慕い敬おうとしない家族。彼はその家族と世間に、自らの父性の完全なるを見せつけなければなりませんでした。それは自らの代わりに、「完全なる父」として一家を率いることのできる「後継ぎ」を育て上げることでした。「慕い敬われる父」を育て上げることで、自らの「父」としての正統性を証明しようとしたんだと思います。だから彼は息子の誕生にこだわり、それが破れたときには一度諦めた長男のところへ出向いたりもしたんです。最後に息子だけを連れ去ったのもそのためでしょう。

 クライマックス、彼の死の瞬間に、海を渡ってきた時の思い出が鮮やかに重なります。祖国を捨ててきた彼がその代償として求めた物、「父性」。彼の死に気付きながら捨て置く息子の姿に、観客はそれが最期まで得られなかったことを知らされるんです。

 人は誰しも「頼るべき誰か」を欲します。そして「頼られる誰か」でありたいと望みます。それを「愛情」と呼ぶのなら、この金俊平の行動は全て「愛情」だったのかも知れません。ただ彼は求める物が大きすぎた。それは移民であることと無関係ではないのでしょうが、同時に「父になり切れない男と、それを超えられない息子」という、どこにでもある父子関係の異常肥大した形でもあるように思います。背景で発展していく昭和の街並と弱まっていく父。それは昭和という時代が、良くも悪くも「父性が失われていった時代」であることの表れなのでしょう。

(評価:★4)

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