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[コメント] ガス人間第一号(1960/日)

何故『第一号』か? 『第二号』が存在しないからである。…社会的な道徳も正義も屈した先に見えてくる混沌と不和、その中で燃え上がる悲恋。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 共に灰となる事もできず、独り這い出してきて、そこで尽きた彼、怪獣はやはり徹頭徹尾孤独な存在なのだ。

 『ゴジラ』の芹沢と恵美子に始まり、『地球防衛軍』、『マタンゴ』、『フランケンシュタイン対バラゴン』、『怪獣大戦争』、『メカゴジラの逆襲』、わけてもこの『ガス人間第一号』。本多猪四郎が撮ったこれらは、全て人間と怪物の悲恋を描いた作品である。繰り返すが、片方は化け物である。フランケンシュタインの怪物、『マタンゴ』になった水野久美八代美紀、『メカ逆』のサイボーグ真船かつら、X星人・波川、『ゴジラ』と『地球防衛軍』に関しては平田昭彦――狂気の科学者もまた一個の怪物なのだ。

 例えば娯楽映画の巨匠として自分が真っ先に思いつくところの黒澤明宮崎駿、彼ら二人の作品を娯楽映画に限って見渡しても、それらしき悲劇も悲恋も見当たらない。作家扱いで世間から高い評価を受ける二人でさえやってこなかった“娯楽で悲劇”または“娯楽で悲恋”に、本多猪四郎はこだわり続けた。自分が二人の巨匠以上に本多に惹かれる理由がここにある。

 黒澤の娯楽映画にも、宮崎映画にも、おのおの作家独自の世界観が反映された独特の秩序と調和が見出せる。黒澤の娯楽映画では黒澤自身のニューマニズムが勝利するし、宮崎映画では宮崎自身の思想により和解がもたらされる。しかし本多の映画には、それがない。ないどころか、むしろ混沌としている。常に人間と怪獣・怪物の対立があり、そこに和解はもたらされず、悲恋は報われない。

 特にこの『ガス人間第一号』は、まさにそんな混沌と不和の産物だ。

 個人的欲望のために犯罪に手を染めるガス人間水野。しかし、そもそも彼は科学の暴走の被害者だ。いや、科学の暴走を促すのは社会であるし、浮かばれない青春を送る一人の青年の焦りが利用されたのも或いは社会の風潮であったと言えるのだから、彼という化け物を産んだのは人間社会そのものだったのかもしれない。そんな水野の存在に付和雷同する浅薄なマスコミや民衆。その中にあっては、ヒューマニズムなど機能するはずがない。そこで治安維持の義務を担う者たちは、彼を怪物と規定する必然に駆られ、情け容赦ない排除を試みる。こうして人間として扱ってもらえないことが決定すれば、自分は人間ではないから人間の法律に裁かれる筋合いはないという水野のスタンスはいよいよ正しくなる。両者はめいめいの必然を持って決裂する。その怪物と人々の間に挟まって苦悩するのは藤千代だ。人々の側からすれば、クライマックスの彼女の行動は不可解だ。何故、非協力的なのかと。しかし彼女には彼女の必然がある。家業が衰退の一途を辿る以外になかったところを水野に助けられた。踊り以外にアイデンティティのない彼女にとって、水野は自分を必要としてくれる唯一の存在だった。彼と人間社会の道徳とを秤にかけ、前者を選び、その代償として最後はあのような行動に出たのだ。その他の人物だって一見暴走しているように見えて、各々の必然に駆られて行動している。特に田島義文演じる田端警部の決断が印象深い。自分の責任で藤千代、侍従の左卜全もろとも水野を吹き飛ばすと宣言し、スイッチを入れて見せたのだ。水野がもたらす社会的影響を判断した上での苦渋の決断だった。

 人間と怪物の対立に道徳も正義もないし、まして和解なんてありえない。あるのは混沌だけだ。『ゴジラ』も『マタンゴ』もそうだった。本多映画における人間と怪物の報われぬ悲恋は、そんな和解できない関係性の象徴としてあるような気がする。よくよく見れば、どの恋も実に不均衡だ。怪物の方は純情の赴くままに人間に惹かれている。しかし人間の方はやはりどこかで怪物を拒絶している。本当は尾形に惹かれている恵美子、『マタンゴ』のラストの台詞、『大戦争』のグレン、そして藤千代。怪物として共に生きることを望んだ水野に対し彼女が取った最後の行動は、愛してはいても共に生きることはできないという悲哀の返答であり、自分はそこに哀しい断絶を見出さずにいられない。でなければ、最後に水野だけが人々に最後を曝す必要がどこにあっただろう?

 ゴジラのメガホンを取ることになった大森一樹本多猪四郎に会った際に、こんなことを言われたという。

「初代ゴジラのあの目は、僕が満州で従軍していた時に行軍した農村の農民達が僕達に向けていたあの目だった」

 黒澤宮崎もしていない経験を本多はしている。侵略の歴史にあって否応なく戦地に駆り出された本多は、自分の心情や能力では到底どうにもならない不条理極まる状況に置かれ、確信したのではないか。この世には和解できない関係があるということを、どうにも浮かばれない者がいて、そして報われない想いがあるということを。

 怪物というのは、和解できない人間関係の間に生まれるものの暗喩なのかもしれない。本多特撮に出てくる怪獣、怪人の多くにそれを感じる。あの留置場のシーン。右往左往する者たちの傍ら、ひたすら怪物への苦悩に沈む藤千代の佇まい、彼女自身もまた怪物に見えてきて、劇的に美しい。

(評価:★5)

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