[コメント] レザボア・ドッグス(1992/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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“撃てばいいじゃん!”・・・合理的と言われるアメリカ人は、こんなシーンは撮ってこなかった。タランティーノがそれをやったのは、香港映画の影響である。彼が師匠と持ち上げるジョン・ウーの一連の作品などがそう。ちなみにジョン・ウーは基本的に一対一で銃を突きつけ合うのだが、この映画では三人+一人。これはジョン・ウーではなく、リンゴ・ラムの『友は風の彼方に』のいただきであるというのが通説。
それにしても彼らは、何故さっさと撃ってしまわないのか?
いや、撃てるはずがない。全く縁の無い者同士、銃を向け合った二人の間に何の心情的繋がりも無いというならいざ知らず、或いは相手がどっかの政治家ならいざ知らず、もし自分が親兄弟、親戚縁者、友達、彼女、同僚、恩師などと銃を向け合ったとしたら、やはりぎりぎりまで躊躇うに違いない。まして何の躊躇いも感じないはずがあるだろうか?
そう、たとえばジョン・ウーのこういったケレンミやハイ・スピード撮影といった我が儘な演出は、言ってみればリアリズムではなく、人間関係における心理的葛藤の表現としてあるのだ。逆に言えば、少なくともジョン・ウーは、二人が銃を突きつけ合う均衡状態に至るまでに、“本当は殺したくない”或いは反対に“ただ殺すだけでは腹の虫がおさまらない”などといった、きちんとした人物関係における文脈を用意している。
では、このタランティーノの作品はどうだろう? ボスからティム・ロスへとシフトしつつあるハーヴェイ・カイテルの揺れる心情を主軸にした均衡状態が、そこにいる犯罪者達の本職らしからぬ人間的な一面を浮き彫りにしている。それは、いずれ弾丸が発射されることだけは確かであるからこそ生まれる緊張感と切なさを内包しているのだと、自分には感じられる。師匠よりも繊細な文脈かもしれない。
そう、タランティーノの作品が輝いて見えるのは、ネタをぱくっても、演出をぱくっても、それらを紡ぐ文脈だけはオリジナルであるからなのだ。
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