[コメント] GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊(1995/日)
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思えば、これほどサイボーグが好きな国民が世界にいるだろうか?すべては石の森章太郎先生の「サイボーグ009」から始まった。石の森氏は「ライフ」誌に掲載されていた「サイバネティックオーガズム」の記事をたまたま読んで「これだ!」と思ったそうだ。この海外で生まれた概念に日本人は憑り付かれ、その後は手を替え、品を替え、今日に至っている。日本サイボーグは明朗なヒーローとして描かれる事は無い。仮面ライダーも藤岡弘は「ルリ子さん、ボクはサイボーグなんだ、人を愛する資格なんかないんです・・・」と悩んでいた。常に影があり、よそ者、はぐれ者というイメージがある。 さらに日本人は合体ロボットというジャンルを作った。永井豪先生のマジンガーZから始まったこれは機械に人間が乗りこんで戦う、というもので、 常識で考えれば危険極まりないものだった。どう考えても遠隔操作した方が合理的だと思うが、エヴァンゲリオンに至るまで搭乗タイプにこだわる。日本人は機械の中に身を投じたい、本気でそう願っているようだ。 90年ころから、若い日本人に異常なまでの清潔ブームが起こった。朝シャン、永久脱毛、腸内洗浄・・・また、電車のつり皮がさわれないとか、人の座った便座に座れないとか言い出し始め、抗菌グッズが一大市場に成長した。 そのころ、バイトの女の子に「寿司食いに行かない?」と聞いたら「わたし、寿司とか刺身とか食べれないんです」と言うので、「では高級大トロでも食べないのかね」「だって〜魚ってヌルヌルしてて気持ち悪いじゃないですか〜」と言うので愕然としたことがある。なんでもサラサラ、ツルツルしたものが好きらしい。ひるがえって世間の嗜好は確かにそういう傾向にあったことに気づく。 このヌルヌルベトベトしてウンコの詰まった内臓をすべて捨ててしまいたい、サイボーグ願望が蔓延していたと言っても過言でなない。 ・・・このような下地があり、そこに「電脳」という概念が導入されると、それにのめりこむ人が多数出現したのは当然と言えよう。今度は脳の機能を機械に預けようという、ということになったのだが、その行きつく果てはもはや脳すらいらなくなったということである。そしてその先には個人の脳を越えた「広大なネットの世界」が広がっている・・・かもしれない。脳がなくても意識は存在するか・・・確かに存在できるかもしれない。しかしそれはホンモノなのか、ニセモノなのか・・・そんなこともどうでもいいのかもしれない。 草薙素子はかつてのサイボーグのようには悩まない。プロとして自分の職務を全うすることに専念しているが、しかしその一方でサイボーグでありながらダイビングという危険な趣味を持っていた。その所作はいかにもあやふやな自己のありようを暗示している。素子が浮き上がってくると、(下から見た)水面に自分の姿が移る。しかしその姿は波にうねる水に映る姿ゆえおぼろで頼りなく見える。 そういえば、「鏡の中の自己」というモチーフはたびたび押井作品に現れた。しかし大抵の場合、それは鏡などというはっきりした像ではなく、ガラスに映ったぼんやりした像である。(『パトレイバー2』では南雲が車から降りるときに室内ランプが点き、その瞬間ガラスに南雲の歪んだ像が写る。なかなかのこだわりようである)。虚構のアニメの人物たちはこうした表現により、我々の視点から見れば実在感が湧き、深みが増すだろう。しかしアニメの世界の中ではその実在は曖昧なままである。 私の関心は、この映画がこのようなテクノロジーの発展ー人間の精神をも侵食するようなーに対してどのような立場を持とうとしているのか、ということだ。かつてこのような場合、行き過ぎたテクノロジーとの対立、人間性の復権、などのテーマが主流だった(『マトリックス』は案外古典的なタイプかもしれない)。しかしこの映画では、この高度なテクノロジー社会に対する明快な批判、対立はなく、人々はそれらをあるがままに受け入れているように見える。むしろこのような世界でも昔と変わらぬ生活を続ける一般庶民や9課メンバーの横のつながりなどに、人間の力強さを感じるが、それでも素子はこの電脳世界の中に何かを見出そうとする。 9課のハードボイルドな活躍によって事件(どん発端だったのか忘れましたが・・・)の核心に近づいた素子はそこで電脳から生まれたと主張する意識体に出会う。純粋意識ともいうべきそれに素子は惹かれ、アクセスしようとする。それは我々、テクノロジーに囲まれ、肉体を持つ実感が希薄になりつつある現代に生きる人間が嵌りこんでしまう危険な誘惑なのかもしれない。もし、肉体を必要としないとしたら、それは「解脱」であり、「霊魂」が存在する証拠と言えるのか。では電脳世界は「来世」なのか。率直に言ってそれは違う、と言わざるを得ない。しかし何らかの願望を抱いてしまう人もいるだろう。 この辺は結末でも結論は出ていないが、このテーマを今ここにいる私自身の問題として抱えて行かねばならないと思っている。
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