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[コメント] 都会のアリス(1974/独)

少女は大人になる。青年は? ふたりのいくあてのない旅路は続く(のか)。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







青年の独り言からはじまる映画が、少女とのいくあての無い道行きの中でふたりの物語へと変容していく。その過程が何とも言えずエロティック(*1)。

ようやく十歳になるかならぬかという少女アリス。彼女は青年との道行きの中で女(大人)としての自己を仄かに見出し、青年は少女を庇護して旅する中で自己愛に収まらない愛すべき他人の面影を見出す。ポラロイドカメラはいつも一度きりの現実を映し出すが、それは撮り手の視線が自己に向けられている限りはいつまでもからっぽな風景を映し出すだけだ。何故ならそれがその撮り手にとっての紛れも無い現実だからだ。この世に向けられる視線はいつも誰かの視線でしかない。この世の現実はいつも誰かの現実でしかない。だからその「誰か」、つまり撮り手がこの世に何者をも見出し得ていないなら、そこには何者の相貌も見出せないからっぽな「現実」が映り込むだけなのは当然のことだ。

旅路の末(?)で、青年は何気ない一度きりの少女の面影をポラロイドカメラに収める。それは青年がこの世ではじめて見出した愛すべき他人の面影なのだろう。それが十歳足らずの少女であったのは、帰るべき家を見失った少女が、まだ大人になりきれていなかった青年の分身でもあったからだ。けれどイエラ・ロットレンダー演じるところのアリスは、青年の自己愛の鏡像に収まってしまうものではなく、みずからも青年との道行きの中で女(大人)へと変容していく独自の存在だった。青年への眼差しを介して映し出されていた独白的な物語が、彼の分身とも言える少女の存在を得ることでふたりの物語となっていく。素直な愛着を抱き得る存在を見出したことで、青年は自己愛の固陋から自然に解放される。その過程をふたりで経たからこそ、あの一度きりの少女の何気ないショットも有り得たのだろう。その関係は、まかり間違えば危ういものにも見えるかもしれない(*2)が、その危うさからすり抜け、撥ね返す俊敏さみたいなものが、この映画のイエラにはあったと思う(*3)。また、「映画のキャメラは天使の視座」と語る監督の言に事寄せるなら、この映画の視座も、それは青年と少女の道行きを見守る守護天使の視座なのかもしれない。この映画が孤独な青年の物語に寄り添いながらも一人称的な閉塞を見る者に覚えさせないとすれば、それはイエラの存在のみならず、その視座の所為でもあるだろう。

映画のラスト。青年は、男は何かを得たかのように物語を書くことを少女に告げる。「君は?」と尋ねられた少女は、窓から顔を覗かせて行く先に眼差しを向ける。ふたりが何処に行くのかを映画は語らない。この「何処かに行く」という時間は甘美なものだ。何処かに着いてしまえば旅路の幻想は終わりを告げる。「何処かに行く」という時間を甘美なものと感じて、そこに留まりたいと思うのは、若さだろうか。(終わりを敢えて物語ろうとしないこの映画は、そこに(その時間に)留まろうとする映画でもある。それはつまり特定の場、空間に留まろうとしないということ。)

1)ふたりの人間の具体的な関係が映し出されていく、という意味で。

2)警察という社会的視座の存在が、ふたりの道行きが幻想に過ぎないことを告知する。

3)これは、所謂“ロリータコンプレックス”の映画なのか。“ロリータコンプレックス”というものが、少女の少女性の幻想の中へと自閉してしまうものであるならば、これはそのような映画ではない。むしろ、それを積極的に生き抜こうとする映画だ。アリスが匿名の少女ならぬイエラ・ロットレンダーであるということは、ヴェンダースの映画にとっては大切なことだと思う。彼女はヴェンダースの前作『緋文字』の中で印象的な役を演じているし、『時の翼にのって ファラウェイ・ソー・クロース!』にもカメオ出演している(らしい)。

(評価:★4)

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