[コメント] 東京暮色(1957/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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『秋刀魚の味』なんかとは対照的にダイナミックな筋立て、なおかつ、演出もかなりスタンダードで流暢に感じた。にもかかわらず、傑作かと問われれば、返答に窮してしまう。明子が死ぬ点、いや、脚本が明子を殺した点に関し、腑に落ちないものが残るからだ。
主人公を明子(有馬稲子)とし、ひたすら明子に張り付くも、最後は父親(笠智衆)で落としたわけだが、これは逃げともとれる。何故なら、明子に死が与えられたことで、婚前交渉による妊娠と中絶というこの映画の核心であるテーマは放棄されてしまった。生き延びた明子を父親に語らせる自信、ボロボロになった明子の再生を描ききる自信がなかったからととられてもしかたない。出戻りの姉・孝子、一家から孤立する妹・明子、当世離れしてリベラルな父親、育児放棄し駆け落ちした母親、どの設定、どのテーマを拾っても、極めて現代に通じる映画であったため残念だ。
そうは言っても、ワンシーン、ワンカットは素晴らしく、捨てがたい。特に、明子の孤立を包む港の暮色や、床で苦悩する父親の向こうでしんしんと降る雪の気配、また、夫の話を迫られてはそそくさと逃げ出す孝子、演じる原節子の所作が忘れがたい。総じて家族や隣人との交流のみを追う作風にあって、浮き彫りにしたいのは、コミュニケーションではなくディスコミュニケーション、つまり“伝わらない気持ちがあるということ”、そして、“それでも日常は続いていくということ”−この二点に尽きると思う。その二点に関する映像表現に抜かりはないのだから(特に、感情がピークに達するようなシーンの省略が的確)、失敗作ということにはならないのだろう。
また、このように、家族間に顕在するディスコミュニケーションそのものが主題であると考えるなら、明子の死の描写も御多分に漏れず痛切…とも感じられる。
婚前交渉による妊娠と中絶をひた隠すため孤立する明子は、その罪の意識から逃れるために、逆説的に、自分が庶出であることを願う。つまり、自分が庶出なら、自分の不徳をそのせいにできるからだ。ところが、問い詰めた母親からは、断固として否定されてしまう。そうして自分が嫡出であることを認めざるを得なくなったことで、彼女の精神的逃げ場は無くなってしまう。いよいよ孤立し、暴走するのも宜なるかな。顛末は限りなく自傷に近かったろう。そして、残るのは、父親に対する罪悪感のみ。しかし、それは決して口に出せない。代わりに口をついた言葉は…
「お父さん、私、もう一度やり直したい…。」
やっぱり傑作か?
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